2011年6月18日土曜日

房州石・古墳(R-5) 明鐘岬附近

地層が右に行くほど急傾斜になり突き出しているのがお判りになると思います。この画像と、5月の5-6日の画像を見比べて下さい。船底の形状が構成されて居る事がはっきり判りますね。地底が裂けたのか?積み重なった火山灰の凝灰質砂岩と凝灰質泥岩の地層の重みに耐えかねて地底が抜けたのか?興味深い現象が起こっています。そして、その積み重なった中心部分が鋸山として残っています。3人の釣り人が風景の中に居ますので、大きさを実感して下さい。

2011年6月17日金曜日

房州石・古墳(R-4) 明鐘岬附近

さて、明鐘(みょうがね)岬のロックシェルター:明鐘隧道の明かりの外側には歩道が有り途中から岬に下る道も有りますが、「危険」だから入っちゃ駄目だよ!と注意書きがあります。地質屋はついこの様な注意書きを無視して岩を、地層を観に行ってしまうものですが、皆さんは理性的に振舞って下さい。ブログの画像を見ている範囲では土砂崩れも崖の崩落も襲ってきません。明鐘岬の部分の隧道横からこの様に砂泥互層のブロックが最近は用途が無いので(?)累々としています。

2011年6月16日木曜日

房州石・古墳(R-3) 明鐘岬附近

蛇紋岩の奥に見えていた砂岩の壁です。地層が殆ど垂直に近く立ってしまっているので、壁の様です。画面右手の地層の斜めの部分と比較すると以下に急激に地層の傾きが急激に変化しているかお判り頂けると想います。この画像からは少し判り難いのですが、タフォニーと呼ばれる風化なのでしょう.砂岩の表面に興味深い風化模様が穿たれています。
砂岩の表面を少し拡大して撮影してみました。所々、生痕化石(穿孔貝とは異なりますが)かな?と思わないでもありませんが、砂岩は興味深い顔を出してくれます。

2011年6月15日水曜日

房州石・古墳(R-2) 明鐘岬附近

古墳系の方々には興味が無いと言われるかもしれませんが、海岸に蛇紋岩の礫岩があります。スケールはありませんが、砂浜の奥に電柱が立っていますのでこれと比較しても結構大きなものだとお判りだと想います。
環伊豆蛇紋岩地帯と言う言葉がありますが、房総半島の鴨川から保田の間に広がる凹地や嶺岡山地にこの蛇紋岩が分布し、それは三浦半島の衣笠駅附近や横浜横須賀道路の横須賀IC附近に続いています。国土地理院からの1/25000地形図は閲覧サービスで無料なので仕方が無いのかもしれませんが、何年経っても更新されない部分が残りますね。池上5-4丁目にはバイパスのトンネルが既に供用されていますが、この附近のトンネル工事はこの蛇紋岩の存在で大変な難工事でお金が掛っています。興味が有りましたら、2010年5月20日から6月20日までの画像をご覧下さい。池上附近の阿部倉トンネル周辺のものものしい道路用擁壁の様子がご覧になれます。
尚、その前の4月7日から5月19日までは、この房総半島から三浦半島に続く主として城ヶ島の地層のご紹介が延々と続いています。
この存在はこの地域の地質がかなり興味深い存在だと示唆しています。

2011年6月14日火曜日

房州石・古墳(R-1) 明鐘岬附近

鋸山から西の方に突き出した「明鐘崎:みょうがねさき」をやや南からながめました。砂浜の右端に大きな蛇紋岩の礫岩が顔を出しています。
崖は崩壊防止の為に壁面に「アースアンカー」で繋ぎとめています。この附近の地形をグーグルやヤフーの地図の写真モードで見ると、この一角がひっくり返った船底の様に盛り上がって見えます。
http://yj.pn/LNpPgR コピペで!
でも実はこの附近は反対に、船底の様に大地に突き刺さっています。この部分はマア古墳とは関係有りませんが地質屋には興味深い場所です。撮影した場所はこの附近。この風景の中に鋸山に登る有料道路の入口もあります。鋸山にはこの山の北側からロープウエイで気軽に登れます。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350900&l=1394946

2011年6月13日月曜日

房州石・古墳(Q-6) 川崎馬絹古墳

このブログの主題である古墳の石材とは関係有りませんが、説明画像の中に、墳丘の断面を示す発掘中の画像が有りました。恐らくこれが「版築:ばんちく」と言うものだと思うのですが、将軍山古墳では「黒っぽい粘土と黄色い土を交互につき固める。」方法で、此処馬絹古墳では「この古墳は,まずローム層(赤土)まで掘りこみ,遺体を安置する石室を組み立て,その外側に赤土と黒土を順序よく細かく積み上げて作られています。」と書かれています。画面右上にこれは鉛筆でしょうか細長いものが写っています。スケールでしょうか? 良い仕事をしてますね!
これで川崎馬絹古墳の画像は終りです。
この後は鋸山・明鐘岬の地層と海岸風景をご案内します。“N”の不動岩附近と対になる風景です。その後は少々道を外れますが古墳石室や石棺の天井石・蓋石に使われる秩父の変成岩をご案内してこの古墳に使われた岩石シリーズ(?)を終える予定です。千葉県の富津磯石を使っている古墳をもう少し歩いてみたいとは思っていますが、これからは私の趣味のメインである火山地質に関連した散策が多くなるのでどうしても機会が減ってしまう事になるでしょう。古い「日本考古学年報」(日本考古学協会発行)を数冊手に入れましたので、何か関連する画像や記載を見付けたらご案内したいと想います。尚、三浦半島には、砂泥互層が広がっていますが、これについてはこのブログの2010年4月7日から5月19日まで画像が延々とあります。但し、「古墳」に使われている「磯石」という観点抜きなので、只ただ地層の画像の連続なので・・・

2011年6月12日日曜日

房州石・古墳(Q-5) 川崎 馬絹古墳

石材とは関係が無いのだが、この古墳で気になるのがこの画像と(Q-2)の画像に見る事の出来る「白色」の粘土模様。世田谷区の野毛大塚古墳の場合は朱だろうか?赤色系の色素が使われていると書かれていた。此処では「白色」の「粘土」が泥岩の縁取りと共に、この様な模様を描くのに使われている。この粘土が在る為に、石室の崩壊を防ぐ為のステンレス支柱の組込みには随分と苦労があった様だが、何故「白色」が使われたのだろうか?
小生の母の故郷は九州は佐賀県。佐賀平野のど真ん中だ。正月を迎える儀式の中に、集落の側を流れる川の河川敷から白砂を採集してきて屋敷内の我々の通路部分に撒き、正月はこの細い道を歩く事と成る。種類は忘れてしまったが、榊だったろうか?木の枝で箸を造り、雑煮はその箸を使って戴いた様にも記憶する。
古墳に泥岩を使う理由の一つに、その白色、清浄な結界を作る意味があったのだろうか?などと地質屋には不相応な事に想いを巡らせて仕舞った。