2020年8月15日土曜日

岩石と地層の表情:096;房総半島:旧天神山村・瀧の谷石丁場

 売津の皆さんと出会ってからはこの付近の石丁場の調査は順調に進みました。と言っても地元の皆さんには石丁場の位置情報を聞き出したり、実際に踏破して我々が入れるように目印を付けて頂いたり大変なご苦労をお掛けしてご協力を頂いています。

大正初期に発行された「千葉県産建築石材試験報文」にはこの地区の大きな石丁場は当時で面積が四百坪もある丁場が有った事が記録されていました。この話をすると、保存会の会長さんが「子供の頃に、野球が出来るくらい広い丁場に一回言った事がある」事を思い出して下さいました。次の目標はこの丁場の探索を行う事になりました。


「千葉県産建築石材試験報文」の旧天神山村地区の石丁場に関する記載を抜粋して見ました。この資料には、地域毎にその概要と産出する石材の特長や、強度・比重・耐熱強度・凍上性能などについての記載が在ります。
売津地区の奥にある石材を使って堤防を築いた溜池から歩き始めましたが程無く、この様な風化岩塊の山が見えて来ました。近くの斜面の上の方に、地上から掘り下げた石丁場がある事を意味しているのでこの坂を登ったのですが、登り過ぎて石丁場の真上の断崖に出てしまいましたので、迂回してもう一度麓に下りました。
高さ8m程度は有りそうな四角いトンネルが見えて来ました。これが「瀧の谷:たきのやつ」丁場の入り口です。この高さは砕石に従って徐々に下に切り拡げて出来たものです。

トンネルの内面は丁寧に石材を採掘しながら切り拡げて来た事を示しています。

「瀧の谷丁場」は流石に広い面積でした。まだまだ奥の方に繋がっています。
奥の方の崖に開いた部分が有り、更に別の丁場に繋がっていますが、足元が悪いので少し高い所から奥に入れないものか?会長さんが足場を確保しながら道を開いています。
崖の手前から奥を覗くと更に広い丁場が広がっています。先程、私たちが迷い込んだのは、この奥の崖の上の様です。少々、足のすくむ高さがありましたからね。

ひとしきり調査を行い、美味しいドリップコーヒーをご馳走になり、一息着いた処で、尾根沿いに他の丁場も覗いてみようと云う事になり、歩き始めましたが、結構な高さの崖が方々に立ちはだかっています。

急斜面の藪の中を進んでいる時に保存会の会長さんが、「ペットボトル下さい」「中身は捨てて!」と言いながら近づいてきました。先程から私の目の端に何か動くものが見えていたのですが、急傾斜の進路に気を取られてとても見る余裕は無かったのですが
なんと「マムシ」が私と平行に動いていたのをサッと手掴みし、私が渡したペットボトルに尻尾から落とし込んで捉えてしまいました。ペットボトルに尻尾から落とし込むタイミングで記念写真を撮る事が出来ました。
石丁場は少し湿っているので、小さなカエルが沢山いますのでこれを狙って蛇も来るのだそうですが、草々は出会えないのだそうで、これで旨いマムシ酒が出来ると喜んでおられました。普段はとても人が来る場所じゃないのでマムシも驚いた事でしょう。

石切の崖も、古い所は、ツルハシの跡も無くなった場所が沢山あります。でもそれが却って地層の堆積模様や断層・地滑りの跡を明瞭に観察出来るとても良いフィールドです。

※ この石切場は、毎年地元の小学校の故郷学習の場として活用されています。石切り場を訪ね、石切場を運営しておられたお宅を訪ねて唯一現存する車力(荷車)の現物を見たり、古い丁場のお話を聞いたりして学習します。勿論、その前に、教師の皆さんだけを対象にした勉強会も開かれます。マムシは私が居ない時にはまず出ません!ので安全です。旧天神山村の車力は、傾斜も緩いので鋸山で使われたものとは形状が異なります。

2020年8月13日木曜日

岩石と地層の表情:095;房総半島:売津の石丁場との出会い

 富津市のJR駅で云うと上総湊のに湊川と言う川が流れています。この左岸側、即ち南側には、鋸山の房州石を採掘した黒滝層が分布しています。文献的には大正初期に発行された「千葉県産建築石材試験報文」に石丁場に関する記事が掲載されているのですが、地域的にはこの地に多数の石丁場が存在した事は殆ど郷土史的には忘れ去られている様でした。この地の石丁場を探すにも土地勘が無いし、鋸山の様な山上に石切場が見えている場所では無いので手付かずのままでいたのですが、2012年に「売津古道保存会」と言う組織が有る事を知りましたので、見学をお願いしました。その後8年間にわたって、この地元の保存会とのお付き合いが続いています。

地質図は「富津図幅」を引用しています。水色の線で囲んだ橙色の【Kt】が黒滝層です。東京湾に面した竹岡・十宮・居作・等の地名が見えますが何れも石丁場の存在した地域です。地形図で見て頂くと更に「海良:かいら」・「売津:うるづ」・「不入斗:いりやまず」辺りまでが主要な石丁場の分布領域ですが、それより山中に入ると運搬手段がコストに響いてしまうのでカマド石に有意な「関」の石丁場から先は苦戦を強いられました。標高がせいぜい140m程度の丘のような場所です。
2012年に地元の「売津古道保存会」の皆さんに古道をご案内頂いた時の画像です。この古道の脇の崖を石垣を築いて居るのを見て意を強くし、私の本当の目的を話して石切場の調査が始りました。勿論、石丁場の存在はご存知でしたが、それが明治・大正から戦後まもなく迄の長い歴史を持って居た事はあまり詳しくはご存じなかった様でした。
石切場からの車力道の例です。硬い岩盤を削って、二輪の木製の荷車で採掘した石材を搬出しました。

石切場の多くは周辺からの土砂が流れ込んで半ば以上埋まってしまった処も多い様でした。

内部は広い処も、狭い所もあり、岩質に従って少しでも良いものを採掘しながら坑道を広げていった様です。
博物館の地質グループの石切場観察会の時の画像です。石切場の広さや奥行きをご覧頂くには人の存在がとても良いスケールになります。
採掘を終わった石壁に掘り込まれた石祠です。安全は今も昔も重要な関心事です。

地下の採掘場から上の開口部にある石切跡を見上げた処です。ここも土砂の流れ込みが大量でした。

壁の一部に掘り込んだ部分がありました。石壁から横に掘り進む時には、この様に石材を縦に並べたような掘方をしながら掘り込んでいきます。これを「垣根掘」と言います。

標高60m程の小さな鞍部に在る石丁場の跡です。船積みをする湊川までは直線距離にして700m余りととても良い条件です。

2020年8月12日水曜日

岩石と地層の表情:094;板戸浜と竜宮島

伊豆の最後は板戸浜と竜宮島付近です。確たる証拠は無かったのですが此処は石材を採掘した跡では無いかと考えて午後もやや遅い時間帯だったのですが立ち寄りました。

竜宮島のやや南の南側の漁港の一角に小丘があります。大きさが判り難いので、防波堤の一部を写し込んだ露頭の画像を持ってきましたが、見た目は火砕流堆積物の様です。
露頭の中には偽枕状溶岩の様に、楕円形の外形を持つ溶岩塊等も観察されます
火砕物の露頭を見ると、基質の色が風化で淡褐色に変わっているのでこの状態では判りませんが、塊状の岩塊の状態は関東で比較的細かい加工を行わく手済む、建物の礎石か文字庚申塔に使われている石材に似ています。私は仮に「げんこつ」と呼んでいますが、基質がしっかりと固結していると良いのですが、この固結状態が悪いと岩塊がすっぽりと抜け落ちてしまうと云う欠点が在りますが礎石には良い石材です。
幸いな事に、竜宮島から少し北側の海岸沿いには、淡緑色細粒の凝灰岩が露出しています。先程の火砕流の岩塊とこの凝灰質の両方で岩石(石材)が構成されていれば良い訳です。

失敗したのは、潮位を考えていなかった事です。竜宮島の周囲は非常に浅い、長靴で歩き回れるほどの海が広がっています。ここは海食棚か、石切りの跡で、普段は歩けると思っていたのに辿り着いた時は「浅い海」の状態でした。私は長靴を持参していなかったので歩き回って石切の痕跡を探す事は出来ません!

海岸のアロエの郷を通り過ぎて少し北の方に調査範囲を広げてみました。面白い風化相を見せる崖が在ります。
スケール無しで申し訳ないのですが、凝灰質の基質から砂礫分が脱落して様々な形状の空洞を構成しています。気泡では無いのはその形状が角ばっているものが多いので理解できます。
赤味を帯びた岩石が在ります。熱水作用により「赤玉」石が出来ています。この部分では基の岩石の外側を被覆している状態です

大きな美しい模様を持つ赤玉石も転石として在りますが、重すぎてとても持ち帰る事は出来ません。それに足元は玉石の岩石海岸なので何も持たずとも歩きにくいのです。

2020年8月10日月曜日

岩石と地層の表情:093;沢田の石丁場

 沢田の石丁場は最もにぎわったのが明治23~25年頃で、石工がなんと百三十名従業したと云います。収率の良い石切り場で石工十名が一ヶ年に一万才(才・切:30cm角立方体)を採掘すると云われた時に、十五万才を切り出したと云います。(静岡県産建築石材試験報文)主に生産されたのは淡い緑色の「本目」と言われたもので、礎石等に使われた「黒目」はやや生産量が少なかった様です。年間の生産量からもわかる通り、石丁場は沢田の尾根筋の至る所にあり、中には尾根を横断する坑道も有ったと云われます。我々が坑道の一つに辿り着いたのは、既に午後も遅い時間でしたので、ゆっくり場所を吟味する余裕も無く取敢えず、道路沿いの坑道に入ってみました。

坑道は尾根筋に沿った林道の脇にこの様に大きな口を開けていました。

入口は型鋼で縁取りされていますがしっかりとした入り口で少し頭を下げると入って行けます。足元は地下水が湧きだすのか少し水が流れています。ライトの光が届かないので先が見えずに何処迄行けるか判らない状態で歩き始めました。地層は、坑道に対してかなりの傾斜角で斜交していま

側壁に明らかなすべり面が見える処もあります

坑道を入って間もなく壁面にクラックが沢山見え始めました。この先で突然、崩落が始りましたが、我々が持って居た懐中電灯では光が届かず、崩落の範囲も足元の状態も良く確認出来ない状態になってしまいました。房総半島の坑道掘りを見慣れてそれに合わせた装備は、伊豆の坑道掘りの探索には全く足りない状態である事が良く判りました。

適当な切り石を見付けて外に運び出してみました。


破断面は予想通り細粒・均質・緻密です。

近代的な駆動装置の一部が雑草の中に放置されています。昭和の後半の機械装置に見えます。切断機の為の電動機と減速装置の様です。


動力ケーブルが引き込まれています。碍子工事もしているので工事屋さんが施工したものでしょう。昭和30年代まで出荷をしていたのではないかと思われます。伊豆の凝灰岩に関して、私の知り得た施工年代の最も新しいのは昭和37年です。

※ Blog 用のソフトの更新の旅に何か不具合が起こり、前の日と同じ操作が出来なくなります。無償のソフトの悲しさですね。数日間面倒なのでUPを辞めておりました。