2019年6月22日土曜日

杉戸町の浅間塚の緑色岩

 杉戸町の調査もそろそろ終盤に近付いており、あと数か所を巡ったら、次は交通不便な千葉県内に戻るか、歩きやすい埼玉県東部を更に探索し続けるかと迷っている。
 たまたま、18日と21日の両日に夫々一ヶ所で浅間塚の石材を観察したのだが、一方は秩父か三波川辺りの緑色の片麻岩らしいのだが、これには天保十三寅(1842)年と刻んであった。境内には天保五(1834)年二月の銘が有る伊豆の凝灰岩製の稲荷神社の石祠が有り、年代の異常さはない。もう一つは、これは恐らく緑色岩で、弘化三(1846)年の銘が有る。八高線沿線の埼玉の一部地域には玄武岩起源の緑色岩もあるのだから不思議はのだろう。
 埼玉県では、浅間塚の頂上に在る石碑は緑色岩であっても確かに全く違和感は無いのだが、千葉県では野田市関宿辺りを除くと緑色岩になんとなく違和感を感じてしまう。勿論、緑色岩は個人的には大好きなのですが、浅間塚の石碑石材は小松石か根府川石でしょうと言いたくなる。

杉戸町倉松の諏訪神社境内の浅間塚頂上の「仙元大菩薩」と刻まれた玄武岩系の源岩に由来する片麻岩。結晶片岩と云えるほどには、剥がれ無い。

側面に刻まれた「天保十三年」の銘

石碑側面の状態。

境内に在る稲荷神社石祠の「天保五年」の石祠。脇に銀杏の木が有ってファインダーを覗けないのでピンボケを御容赦下さい。

稲荷神社石祠に使われている伊豆の緑色凝灰岩には、火山岩片が多く含まれている。画像の横幅は 34 mm 程度。粒状の組織が特徴。但し凹んだ部分の小さなものは蘚苔類が多く砂粒では無い。

諏訪神社にも、後述の杉戸町杉戸の厳島神社浅間塚にも、共通して栃木市岩船町の「岩舟石」が使われている。但し、後者には、円礫を含む少し岩舟石に似たコンクリート構造物が上手く潜り込まされているので注意!

杉戸町杉戸の厳島神社(富士浅間神社、金毘羅神社)浅間塚。何処かに松尾芭蕉の句碑が有るらしい。此処には昭和三十五年の井内石(仙台石)の石碑まで錬り込まれている。江戸時代には古利根川舟運の荷揚げ場であったと案内板に記載が有る。現在も7月1日に「初山参り」が行われている様だ。

凄まじい驟雨に襲われて、隣の河寿稲荷神社の軒下に閉じ込められていた直後でまだ、乾ききって居ない。

弘化三年の銘がある。他には明治十五年の銘が有る、伊豆の凝灰岩製狛犬一対。明治二十四年の銘が有る馬頭観世音は美しい縞模様の有る伊豆の凝灰岩。手水鉢側面には「享」の文字が見えるが。馬頭観世音石祠に隠されて読めない。

やや黒く見えるかもしれない岩石だが、これが観察されれば納得頂けるだろう
以上

2019年6月17日月曜日

No.0956_杉戸町杉戸:八幡神社 6月17日のFW

 北風が強く帽子は飛ばされるし、接写をしようとすると屈みこんだ体が揺すぶらされる。強風で澄み切った青空で日照が強過ぎて石材の画像は白く飛んでしまって細かい所が写らないので、今日は概ね昼頃で撤退!
 今日は杉戸町杉戸から倉松の6か所を巡って1ヶ所伊豆の凝灰岩を観察。もう一ヶ所、秩父の青石が天保時代に使われていたので別件だが合計二件が当たり。
 最初の八幡神社では、拝殿裏手の燈篭の軸部は、粒状構造が顕著な伊豆の凝灰岩で、天保十二年(1841)とハッキリ読める・ 参道の敷石はやや細かな軽石質凝灰岩で、敷石の奉納碑と思われる小松石製(根府川石形)石碑は明治二十三年(1890)・ 手水鉢:細粒花崗岩:明治二十五年(1892)・ 富士山溶岩を基壇にあしらった一対の狛犬は明治二十九年(1896)・ 鳥居:花崗岩製:明治四十年(1907), 鳥居に掲げられた神社額は、宮城の井内石・ 灯篭の上部は昭和の作で白河石製だが、基壇部分は伊豆の軟石でこれは社殿前面の基壇の石材と共通・

花崗岩製鳥居は明治四十年丁未(1907)年かなり傷んでいるが、帯板で保護している。

一対の鳥居は基壇部分と燈籠本体の材質が明らかに異なる。上部は後年の改修品で有ろう。

灯篭基壇の伊豆軟石は、表面の叩き加工にも拘らず、粒度の差が脈状に現われる事が多いので判り易い

細部を見ると砂岩の様にも見えるが、特徴の小豆色の火山岩片が観察される。

社殿前面の基壇は、燈篭の基壇と石材の構成が同じなので同時期のものと思われる。笠石は、小生が「げんこつ」と呼び慣らしている、やや茶褐色を帯びた大きな礫の間を細粒の緑色凝灰岩が埋める。

燈篭の軸部に観察される圧密レンズ。芦野石と白河石の区別は煩わしいが、この様に小さな黒い圧密レンズを含む石材は「白河石」。やや大きな厚みのある圧密の軽微なものを「芦野石」としている。

白河石(芦野石も同様)で灯篭等を作ると、圧密レンズが観察される面と、レンズが観察されない面が直交して用いられている事が多い。

燈篭の基壇上に使われた、私が「げんこつ」と呼び慣らす石材の拡大図。社殿基壇の笠石と同じ材質。文字程度は刻めるが、像などの彫刻には向かない。

拝殿裏手に在った灯篭棹の完品。これも基壇材料と同じく小豆色の火山岩片を含む粒状構造の顕著な伊豆半島産凝灰岩。土埃でやや薄汚れている。

宮城県石巻産の「井内石」で造られた神社額。年号は確認出来ないが、材質から明治以降のものと判断される。

今日のコース:複数の線が重なる部分はバス路線。左上から右へ強風の中を右往左往。
以上

2019年6月16日日曜日

港区南青山の岩舟石:栃木市岩舟町で採掘された角礫礫凝灰岩

 千葉県立中央博物館地学科では11月に栃木市岩舟町の「日本で一番小さな岩舟石の資料館」と採掘が行われていた石切り場や岩舟石が使われた土木・建築物を観察する「県外岩石観察会」を現地集合・現地解散で開催する。
 この石材は、同じ栃木県内の真岡市内で採掘された「磯山石」と同じく、含まれる礫のサイズが大きく、主に石垣や河川の護岸等に使われてきた石材で主に栃木県内で使われて来たが、千葉北部の現在の「野田市関宿」では、利根川から江戸川を分水する部分の制水工としての「棒出し」用部材として使われたほか、野田~柏に数多く存在した醤油醸造業において水回りや大型機械用の礎石として使われて来た石材です。
 伊豆の凝灰岩は、鰯を天日乾燥させた「干鰯・魚肥」が運ばれた地域には殆ど出回っていると云える程で関東平野では流通領域が広いのだが、岩舟石や磯山石の流通範囲はごく限られていて、南青山の「青山葬儀所」正面の石垣に使われていた例は東京都内での初めての確認だった。
 岩舟石には、オリビンの小さな結晶(顕微鏡レベルの)を含む真っ黒な水冷玄武岩と、熱変成を受けてやや透明度を増したチャート岩片が混じる事が多く比較的選別し易い石材だが、化石や花崗岩を含む物など岩相は変化に富むものです。

外苑東通り(319)に面した石垣に「岩舟石」が積まれている

南側の都道413号との接続部に面した部分は大谷石が使われている。岩舟石の石積みは目地材が無い。

黒い礫は玄武岩質、中央付近にやや透明感のあるチャート片が観察される。細い落ち葉がスケール代り

薄茶色の部分は蘚苔類。黒色礫の破面は硬そうな面構え

白い礫と画面左下スケール上のやや黒い礫はチャートと思われる。この切石には小さな白色礫が数多く含まれている。

含まれている礫も、蘚苔類の着生も様々。小松石(安山岩)の石積みに比べると素朴系の石材かも知れない

前画像と同じ石積みの一部を拡大したもの

画面が汚れていて申し訳ないが、野田市関宿の岩舟石が使われた「棒出し」の説明図の一部分。一辺が 60 cm 弱の断面を持つ立方体~ 60 x 60 x 90~120 cm 程度の直方体の切石がが良く使われた。

野田市花輪の野田の最も古い醤油醸造家であった高梨家(季節限定公開施設)の醤油絞り装置の受け台に使われた岩舟石。「綱引螺旋式醤油圧搾機(きりん)」と呼ばれた明治三十年まで使われた装置の木桶部分。
以上