2011年6月11日土曜日

房州石・古墳(Q-4)川崎 馬絹古墳

石組みの素晴しさを示す別の画面をご覧頂きましょう。これも公園に在った陶板製の説明に在った画像です。現在は内部にやや変形などが観られる為に、ステンレス製の支柱で保護している様です。

2011年6月10日金曜日

房州石・古墳(Q-3) 川崎 馬絹古墳

石室の石組みを示す画像が古墳を保存している公園内にその他の様々な説明と共に記されています。やや鮮明さに欠けますが、詳しい資料は川崎市の市民ミュージアムで閲覧出来ますのでそちらを御利用下さい。比較的加工し易い泥岩とは言え、精密な加工が施されているのには驚きますね。こうして、ホンの少しずつ泥岩を組み合わせる事により相互の位置の保持や全体の剛性を高めているのでしょうか?材料が泥岩と言う「岩石」としては比較的柔らかい素材を採用しているので強度不足での撓み(たわみ)が出ていて現在はステンレス鋼材を使用して変形による崩壊を防いでいる様です。
一昨日に福山に出張に参りました時に、夕方少し時間が有り、福山城の石垣を見学しました。古墳の石組みとは同列に論じる事は出来ませんが、此処の石垣は新しいせいかまた別の興味が沸いてきました。

2011年6月9日木曜日

房州石・古墳(Q-2)川崎 馬絹古墳

古墳の傍らに立てられた陶板製の説明に示された馬絹塚古墳内部の石組みの様子です。画像でもお判りの様に、非常に精巧な細工で、泥岩を削り込み隙間が無い様に組み上げています。これでは穿孔貝の生痕化石は見当りません。古墳築造の技術レベルが全く異なります。また、同じくこの画像と同じ様に川崎市教育委員会のH6年の馬絹古墳の説明には「墳丘の表面には,手のひらほどの大きさの河原石が敷きならべられていました。」とはっきりと記されています。

2011年6月8日水曜日

房州石・古墳(Q-1)川崎 馬絹古墳

神社の社殿裏にこの小さな古墳があります。古墳を取り巻く石の列が野毛大塚古墳の発掘写真にあった環状の石の列を思いださせます。
はっきり言って、さきたま古墳群の博物館展示にある「房州石」が使われている古墳リストにどのような経緯でこの古墳名称が上げられたのか?理解に苦しみます。さいたま(さきたま)では穿孔貝の生痕化石が残ったままの手で抱えられる程度の大きさの泥岩をほぼそのまま利用して石室を形作ったもの。この馬絹古墳では「泥岩」ではるが、大型の切石を精密に加工・接合(形状的な接合であり、接着ではない)使用しており穿孔貝の生痕化石は見当らない。

さきたま古墳群では「泥岩」と言う共通点だけで何でも来い的なかなり乱暴な議論の様に思える。この様な乱暴な議論が、「房州石だから!房州石なんだ」と怒鳴るような状態を生み、既に主として鋸山から切り出した凝灰質砂岩でその美しさで建材にも多数使われて来た歴史を持つ房州石というものが有りながら、「富津磯石」をも「房州石」と言い切ってしまうような、非学問的な態度を作ってしまうのだろうか?
尤も、将軍山古墳の「再現」古墳内部には「石室は現在、床の部分しか残って居ませんが・・・」と書かれているが、切石が古墳の石室を飾っている。
再現展示の床面は円礫で壁面の無い部分には不定型の少し大きめの富津磯石らしいものが置かれ、穿孔貝の生痕化石が残る泥岩(砂岩?)の説明書きには「横穴式石室に使われた房州石」と書かれているのに、将軍山資料館の説明には「石室の壁には・・・「房州石」、天井には埼玉県寄居長瀞周辺でとれる緑泥片岩が使われており・・・」と書かれている。
何故・壁面の切石(念の為に記すが、再現石室だけでなく説明書(ガイドブックさきたま17頁)にもその様に書かれている)も「房州石」なのか?理解に苦しむ。泥岩と言う事だけなら、長瀞の更に上流の「ようばけ」等でもしっかりした泥岩が採集出来そうに思える。長瀞や「ようばけ」の画像も何れご案内しましょう。

2011年6月7日火曜日

房州石・古墳(P-8)青掘内裏塚古墳

この2つの画像も比較的厚めの天井石だったかもしれない岩塊の一部分です。大体同じ程度の距離から撮影していますからスケールは共通と見て良いでしょう。木製のスケールは全長165mmです。
泥岩と砂岩の境目が剥れそうになっていますね。境目の緩やかな曲線はある意味リップルマークみたいなものでしょうか?
内裏塚古墳の画像はこれで終りです。次は川崎市の馬絹塚古墳です。
今日はこれから広島県福山市に勤務先の工場の一つへの出張です。日帰りは無理なので明日は空き時間を利用して伯備線で高梁川沿いを少し歩いてみようと思っています。そんな訳で、多分明日はUP出来ないと思います。

2011年6月6日月曜日

房州石・古墳(P-7)青掘内裏塚古墳

元々は天井石だったと思われる大きな岩塊。古墳を発掘調査するなんて文明人がこんな破壊的行為をするものなのですかね?発掘した人物は研究者なのでしょうか?尤も、発掘者と記念碑建立者が一緒とは限らないか?でもキチント発掘資料を残していなけりゃ盗掘と同じですよね。下の画像は石碑の前面から見たものですが、前の画像が見えますね。スケールは有りませんがこれで概略の大きさが判断出来ますね。

2011年6月5日日曜日

房州石・古墳(P-6)青掘内裏塚古墳

此処で使われている代表的な磯石の顔を一個拡大で見てみましょう。これは穴が多いですね。泥岩等の穿孔貝の生痕化石について書かれたものの中には、「この仲間は,でんなに生息密度が高くても,けっして隣接するほかの巣穴を破壊することなく,常に新しい空間を求めて穿孔する。」と書かれたものがありますが、此処の穿孔貝は違った種類なのでしょう。