2012年1月7日土曜日

秋保石の中の鉱物

仙台の奥座敷秋保温泉の磊々峡に産出した「含有孔虫浮石質凝灰角礫岩」と言う長い名称の「秋保石」に一体どんな「有孔虫」が含まれて居たのか?まさかそうそう多くは含まれて居ないだろうが、凝灰岩であれば、空隙になんらかの火山灰等に含まれる様な綺麗な自形の鉱物が含まれて居る筈だと思って、ひがな一日実体顕微鏡で観察してみました。
繊維状に非常に細長い気孔を持つ軽石の空隙の中に怪しい光がキラリと輝いたので、40倍に拡大して小型のデジカメでコリメート撮影をしてみました。沸石では無さそうですが水晶にしては面の角度が・・・画像の横幅が確か3.8mm程度です。他には自形の磁鉄鉱や高温石英も見付かりました。

人間の山 写真万葉録 (1-2)

写真万葉録には大変多くの画像が収録されている。
10巻の万葉録のその第一巻の「人間の山」だけでも169枚の画像が収録されている。
勿論、坑内写真など、大きなヤマのものは在るにしても、私が出会ったような中小のヤマについては坑口の画像は在るが、内部に関してはほぼ存在しない。
この画像集を紹介する為に、それらの中から夫々2枚程度の画像を選び出す事は難しいが、私はこのボタ山の画像を選んでみた。天空にそそり立つボタ山は美しい、時には懐かしさや哀愁を感じる事すらあるが、同時に中小炭鉱においては、其処は生きる為のぎりぎりの稼ぎの場所でもある。
しかし、ボタの中から黒い燃料になる石炭を拾い出す事は、食う為に必要な労働では在るが、同時に常に死の危険と隣り合わせの場所でもある。
この画像を選んだのは、此処に見えている溶岩流の表面に出来る「溶岩皺」のような模様にある。
ここでは確実にボタと石炭が安息角の限界を超え、地すべりに似た斜面の崩壊を起こした事が示されている。
斜面でズリトロの腹を割って転がり落ちてくるボタのなかから石炭を拾うとき、その場所の地滑りは時として働く人に確実な、無残な「死」をもたらす。
「人間の山」64-65頁には「拾い子一人、ケガさせとらん。一人の死人もだしとらん。と胸を張る刺青姿の頭領の姿があるが、母をボタヤマで失い露頭に迷った子等も居た事は事実である。

2012年1月5日木曜日

人間の山 写真万葉録 筑豊(1)

1984年4月 上野英信氏と趙根在氏の監修による画像集の「人間の山」が出版された。
巻の1から順次出版された訳でも無いから最初がどの巻だったか記憶にないが、当時1800円の書籍が10冊も続けて出版されると言う事は、これは大変な事が起こったぞ!と思った記憶が在る。
神田の地方小出版流通センターに毎月通い手に入れていた。
「筑豊炭鉱絵巻」の次はこの「写真万葉集 筑豊」全10冊を取り上げなければと思いつつも、66歳にして、生き急ぐ私には心の余裕が無く、夫々の巻から1-2枚の画像を引用してご紹介しようとすると迷いに迷い選択が出来ない。でも兎に角始めるしかない。
第一回は「人間の山」から23頁の「掘る」をご紹介する。
上野英信氏はこの巻のあとがきを「この記念すべき大仕事の、それも最初の巻のあとがきを、こともあろうにこのような悲しみと怒りの言葉をもって書き起こす羽目におちいろうとは・・・。」と書き記す。1984年1月18日「魔の囚人ヤマとして悪名をとどろかせた三井三池鉱業所の有明鉱で坑内火災が発生し、八十三名の作業員が一酸化炭素中毒によって惨死をとげ、救出された十六名の負傷者もやはりCO中毒症にかかっているという」
ゆっくりとした歩みしか出来ないが、上野英信氏の関わった多くの書籍のその結晶の一つ一つをご案内してみたいと考えて居る。
尚、出版社は、福岡の「暗河」を発行していた葦書房。

北九州に育った私には筑豊は近い。父に連れられて、多分二人で幼い時に炭鉱に働く父の知人を訪ねて炭鉱町の中を歩いた記憶がる。戸畑の今で言う下請け・孫請けの一人親方が旋盤に腕を振るう鉄工所街のスラムの様な場所に住み、毎日をアスベストの粉じんが、小さな窓を通して差し込む光できらきらと輝く場所で生きて来たので、私と遊ぶと友人たちはアスベストの細かな繊維状の結晶がその皮膚に突き刺さりかゆみを訴える為に、共に遊ぶ友を失い、私は更にアスベストの舞い飛ぶ「倉庫」の、石綿を詰めた俵の山でターザンごっこをして育ってしまった。