2015年5月9日土曜日

鎌倉石 (3) 衣張山の採掘跡

報国寺の南に衣張山と宅間山が南北に並んでいますが、この衣張山の山頂直下にあるのがこの石切り跡です。ハイキングコース脇にあるので比較的良く知られている様です。
この採掘跡から南側には数十箇所の石切遺構がありますが、広葉樹林で殆ど手入れされていない場所が多いので観察に適した場所は余り有りません。ここから平均的な石材(三尺x一尺x五寸)を背中に背負って下ったのか、或は滑り台の様な構造で滑り下したのか?この付近での採掘と運搬に着いては謎だらけです。石材一個の平均的重量は25kg程度です。


 切残しがあります。
 壁面に残るノミの跡です。刃鶴を使ったにしては、切削痕が短いのと直線部が長いので恐らくノミなのだろうと想像しています。

2015年5月7日木曜日

鎌倉石 (2) 片瀬山の石切り場跡

片瀬山の岩屋不動には壁面に鮮やかな石切痕跡が残る壁面があり、平場から剥ぎとった様な採石跡も残る。この不動様は1800年頃に再建・管理されているのでその前後の時代に境内整備を兼ねて石切を行ったのだろうか?
住宅街に沿った参道の奥にも石切りの跡が散見されるので、小規模ながら石切りが行われてきた様子が判る。
 境内の石切り跡
 参道の更に奥の石切り跡

2015年5月6日水曜日

鎌倉石 (1) 腰越の石切場跡

明治時代以降に三浦半島や鎌倉・藤沢などの地域で用いられてきた石材に鎌倉石があります。量的には比較的少ないのですが、佐島石や池子石よりも恐らくは歴史が古いのですが、文書の形で残された記録が余りに少ないのでその全貌を調べ出す事は出来ませんが、神奈川県で使われた房州石の事を調べようとすると、対比上どうしてもこの石材を外す事が出来ないのです。まだ文献調査も行き届いて居ないのですが、丁場や現存の構造物を歩いた記録を少しご案内します。

 採掘面の風化の進行で、石切痕が見えませんが、崖の隅がきっちり直角に切られているので石切場跡と考えて間違いないでしょう。腰越のトンネルの近くの石切場跡です。歴史的な凝灰岩質石材をしらべる時に、何時も直面する困難は表面に苔や黴や羊歯の類が繁茂して地山の素地を見せてくれない事です。ここでは望遠レンズで僅かに見えていた地山を写してみました。


2015年5月4日月曜日

旗山崎の石積み (3)

旗山崎付近は実は海堡用の石材が採掘された場所でもあり、この様に明らかに人手が掛かられた跡が在ります。幾つか見る方向を変えた画像を並べています。何故か切り取ってからその付近に放置された様な土丹層が沢山あります。

上図の奥の方に黒い層が見えますがこれはこの付近の護岸に使われているのと同じような黒色スコリア質凝灰岩でかなり風化にも強いものなので、土丹層の上の部分は剥ぎとられた可能性が高そうです。
黒色スコリアが残っている部分です。厚さは20cm以上あります。

2015年5月3日日曜日

西ノ島:4月27日海上保安庁撮影画像

海上保安庁海洋情報部のウエブサイトで4月27日に撮影された西ノ島の画像が紹介されている。その中から2枚を引用させて頂きご紹介する。最初の画像は島の全景を示すもの。
 下の画像は本来もう少し横長の画像なのだけれど、スコリア丘の側面から溶岩が流れ出しているのが見えるので画像の左側を少し削らせて頂き、スコリア丘の側面の崩壊部が判り易いようにトリミングし更にこのブログの画像サイズに合うように1280ピクセルに縮小させて頂いた。元の画像は、海洋情報部の海域火山データベースの西ノ島火山のサイトを参照下さい。
スコリア丘は嵩比重が小さく火口に溶岩を溶岩湖の様に蓄える強度を構築出来ないので、溶岩は大体スコリア丘の下部から流れ出すか、この様に側面を破って流れ出す。

旗山崎砲台の石積み (2)

旗山崎砲台の北側の砂浜から見た全景です
 砂浜に近い凝灰岩質石材を用いた護岸の様子
 安山岩製護岸の状況
 同じく安山岩製護岸の状況
 奥の方の護岸は黒色スコリア主体のやはり凝灰岩製護岸
 護岸もこのようにきっちり積み上げた部分もあります。土丹を削り込んで築いています