2020年5月30日土曜日

岩石と地層の表情:032;奈良まで進出していた松島石

二上山・ドンズルボーの凝灰岩が法隆寺の金堂と五重の塔の基壇部分に使われている事を調べている時の事です。車窓から眺める景色の中に時折、野蒜石によく似た石材がある事に気付きました。橿原考古学研究所に行くのに間違えて橿原神宮駅で下車して歩き出した時に同じ町内の数か所その石材が門柱や石塀に使われていました。「野蒜石」にとてもよく似た石材がこの付近に産出しているに違いないと思ったので、試しに「この石はどんな石かご存知ですか?」と聞いてみました。それからが大変です。石材は「松島石」と云われた様なのですが、業者が売り込みに来て「この石材は古墳時代から使われてきて、少し高価だけど、大谷石のように腐る事も無く何百年も持つ素晴らしい石材で、この付近でも沢山採用して頂いている」と云われついその気になって購入したが「直ぐに門柱は傾くは、塀にはひびが入るはで・・・・」と長時間愚痴を聞かされる羽目になってしまいました。凝灰岩のせいでは無くその基礎の手抜きが原因の様でした。
しかし、古墳の石室の石材は剥き出しでは無いのでそれは長持ちするのですが、雨ざらしの門や石塀に使われた凝灰岩石材は、水はけや、気温の条件によっては必ずしも数百年に渡って健全性を保てるとは限らないので、やや過大広告気味の石材会社が存在した事が判りました。石材屋はどうやら九州まで売り込んでいた様で、関東では春日部などでも目にする事がありました。奈良で観察した石材を少しだけご紹介します。
JR香芝駅近くの大きなお宅の石塀
橿原神宮傍の民家の門柱付近の石塀。笠石の形状の悪さで水溜まりが出来てしまってカビが生えたケース
礎石との取り合いが悪くて湿気が溜まり冬場の凍結(盆地は冬は冷え込むだろうから)と融解で破損に至った事が想定される例


石材は決して悪くない。石材も被害者と言える
すべり面なのか、クラスティックダイクの様なものなのか?チョット興味を惹かれる構造

2020年5月29日金曜日

岩石と地層の表情:031;JA石巻・稲井支店農業倉庫

この画像は2013年の6月に撮影したものです。野蒜石を調べる傍ら、石巻産の井内石も少し調べてみようと思い立ち、牧山を南側から山の縁の石材屋さんが並ぶ道を時計回りに回っている時にこのの野蒜石を用いた農業倉庫に出会いました。例によって赤い線はJRの石巻線。東北本線の小牛田と石巻を通り女川に至る路線です。橙色の曲がりくねった線は牧山とそれに繋がる井内石の採掘場跡が造る曲線の大体の線を現した心算です。緑の点がこの農業倉庫の位置を示します。稲井駅前から北上川沿いの山裾には、アベタ石材さん他の井内石採掘・加工業者が「軒を並べる」状態です。
昔の井内石の採掘場が連なる橙色の線沿いの地区は、石屋さんは残っていますが稼働している処はありません。中には、あそこに一本大きな奴を埋めてるんだ。もうあんな大きな石を使う仕事は無いだろうな!と話してくれた親爺さんもいました。
手前の「ズリ」が多過ぎましたが奥に井内石の絶壁が見えています
立ち入る事の出来る最後の石切跡だと思って歩いてきたら、立派な野蒜石を用いた農業倉庫がありました。井内石の石工さんが丁度居られて井内石と野蒜石の事をいろいろとご教示頂きました。農業倉庫の上と下は同じ野蒜石なのだが、上は比較すれば水に弱いので比較的上の方に、黒い方は強いので礎石から腰下に使う事が多いとの事でした。
何処から来た?と聞かれたので千葉から来た事を云うと、「昔は千葉に随分と儲けさせてもらったな~!」と仰います。関東でも特に井内石の大きな石碑材の需要が大きかったとの事でした。この一言がきっかけで、千葉県内の井内石の分布状況を調査し、牧山以外の石切場を歩き、しまいには、南九州は飫肥の街外れで、井内石の石碑を確認する羽目になってしまいました。
白い部分は、スコリアが少ないのですが、組織的には凝灰質の固まりが寄り集まっている状況には変わり有りません。
白い部分の壁面です。これに似た石材は、後日、鳴瀬奥松島ICのランプロード内にある。「川下石」の現役の石切場でお目にかかることになりました。
黒い部分の方がやはり何となく強そうな雰囲気があります。
部分拡大をしてみました。日陰の部分で撮影したのでこの画像では判り難いのですが、緑色凝灰岩も混じっています。
黒い部分の接写拡大図です。発泡した組織が観察されるので、スコリアと考えて良いようです。
やっとスケールが壁面に引っかかってくれました。
白い部分を観察していると、中には筋状の組織を示すものが含まれている事に気付きました。筋目は水平方向に走っていますので、軽石が圧密されて筋状に見えるのか?それとも、軽石が繊維状の気泡を持って居たのか?この画像だけでは確認出来ません。

2020年5月28日木曜日

岩石と地層の表情:030;津波に耐えた石蔵

石巻市内でも津波は旧北上川をかなりの距離に渡って遡上した事は皆さんもご存知の通りです。地図は石巻市内の一部を示していますが、赤い線は仙石線と東北本線の小牛田と女川を結ぶ石巻線です。運河はこの図の少し上で北上川に開口します。黄色い線の左側は牧山を主峰(?)として井内石(稲井石・仙台石)の地質が広がる領域で、この線に沿って古い石切り場跡が分布しています。右端の真黄色い円が現在の井内石の共同採掘場。その左手の露天掘りの部分は復興需要などに対応した砕石場。北上川の中州の緑の円は手塚治虫ミュージアム。その下の三角形は日和山公園。橙色の点が今日ご紹介する野蒜石の石蔵がある場所です。石巻はいろいろと縁が有って50年以上前から何度も来ている場所です。
これらの画像は震災のほぼ1年後に撮影したものです。近くの明らかに津波にやられたと見える土蔵も写した心算でしたが残念ながら見当たりません。
これらの写真を写した時は、実に数十年振りに歩くので記憶をたどりながら赤い線の中の丸い印の石巻駅から、手塚治虫ミュージアム方向に歩きました。川に近付くともう言葉に使用が無いほどの惨状で、最初に壊れた土蔵を見て、周りを見渡すとこの石蔵をが目に入りました。その後は日和山公園まで歩き、丘の上から海岸方向の惨状を再確認し、その後は何処かで道を曲がり損ねて随分と遠回りで駅まで戻った事だけを記憶しています。
石蔵の下の部分は、新たに追加したらしい構造物の色が馴染めなかったので写していませんが、ほぼ傷みは無い状態でした。
正面の屋根の下の部分ですが、飾り彫刻の線もしっかりしていて何時頃の建物か判りませんがしっかりした造りである事は間違いありません。
やや白い塊は、細粒の凝灰質の固まりですが、「礫」と表現するほど固結はしていないので「偽礫」とでも表現した方が良いのかもしれません。黒いのは砂礫サイズの岩塊の様です。
白い均質な凝灰質が堆積していた場所を吹き飛ばして粉々に破砕しながら、黒い砂礫を含んだ火砕物が火砕流のように包み込んで堆積した様な雰囲気です。石材によってはもっと白い塊の周りを黒い粒子が包み込んだような状況が良く判るものが見掛けられます。
白い塊はほぼ内部に砂礫を持って居ない事がお判りかと思います。白い「偽礫」の大きさは大小さまざまですが、これが同じような大きさで揃うと綺麗です。


日光が当たると凝灰質の細部が見えてきます。薄い赤い色はその汚れ方から何か外来の衝突物の様なものから色移り下のではないかと思われます。
この程度のサイズの固まりが一番良い雰囲気の様な気がします。明日はもう一ヵ所別の建物の石材を見て頂きます。

2020年5月27日水曜日

岩石と地層の表情:028;棟梁が残した野蒜石の工具庫

仙石線が津波被害で事後の再被害を防ぐ為に東名と野蒜を含む経路を大きく高台側に移設してしまいましたが、私が震災後に初めて旧野蒜駅前に立ったのは、まだ代行バスが走っている時期でした。東名運河に沿った旧路線は鉄柱も傾いたままでしたが、野蒜駅跡の西側の外れに立派な造りの小さな恐らく工具倉庫らしい建物が雑草の中にポツンと立っていました。
後で、東名の近くで、この小さな野蒜石を用いた建物が、此処に作業場を持って居た石工の棟梁の工具庫である事をお聞きしました。
地図の赤い線が仙台と石巻を結ぶ現在の仙石線。山を切り開いて標高20m 程の丘陵部に線路を通しその北側に住宅地を造成しました。黄色の線が旧の「仙石線」。小豆色が旧野蒜駅(震災遺構として保存されているらしい)。その少し左手の小さな緑のポイントが今日ご紹介する小さな野蒜石造りの建物です。水色の線は川では無く「東名運河」で、鳴瀬川を介して北上運河から暫く海岸線に沿って東進し、石巻市の北側を横切って旧北上川に接続されています。橙色の線は野蒜石の石切場が連なっている場所。震災の津波が地域を襲った時には、地元の方々はこの崖の上で難を逃れたのです。石切りの痕跡は森林を示す緑の縁に沢山並んでいます。
現在も地図で見ると広い駐車場のに接した場所で現在もそのままに佇んでいる野蒜石を用いた工具庫です。棟梁は震災で津波に襲われて亡くなられたとお聞きました。小さいながら、屋根との取り合いも大きな石蔵と同じ造りです。
野蒜石は、砂礫分が残り基質がすこしづつ剥がれるタイプの凝灰岩です。(基質の固結度にもよりますが、砂礫が脱落するタイプも伊豆などには多いのです)この為、古いものほど暗色系に見える事があります。この石材は比較的均質なものが使われています。
一ヵ所角が欠けている部分が有りました。津波の際に何か大きなものがぶつかったのでしょうか?あたらしい傷です。未だ基質が剥がれていないので別物のように色白です。
壁面の色合い、風合いが何故か大好きです。
窓のスライドを受ける部分とか、低い位置の換気口の一部には何故か大谷石を使っています。
基質の中に比較的均一に比較的小さな砂礫が分散しているものと、後日ご紹介するものではもっと顕著なものをご紹介しますが、灰白色の団子状の周りを黒っぽい粒子が囲むようなものが、野蒜石では良く見掛けられるタイプです。
旨い具合に10円硬貨が引っかかってくれた場所が在りました。この工具倉庫の石材の中では10円硬貨より大きな礫は珍しい存在です。
最初の地図で橙色の線で示した石切跡のごく一部です。この部分は全て切削機が使われています。線路の近くや住宅の近くの比較的小さな石切場跡は手掘りが殆どでした。
代行バスで石巻に向かう時に、現在の(新)野蒜駅となるであろう付近で開削された露頭を写したものです。4トンダンプトラックの運転席がスケール代わりです。緑色凝灰岩層が見えます。

2020年5月26日火曜日

岩石と地層の表情:027;秋保石を観察する

石材を観察するのに一番良いのは石切場等の露頭ではありますが、石切場跡は探すのもそこに分け入るのも大変です。常に危険との背中合わせであり、私も5m位の崖から落っこちた(飛び降りた)経験があります。秋保の場合は、石材の岩質を観察するのに良い場所が少なくとも二ヵ所あります。一つは「秋保 里センター」で、バス停とお土産物屋とお食事処等があります。チョット困るのは、石材を使っているのがトイレの外壁なので、余りうろうろしていると変質者と間違えられる恐れがある事です。
暫く行っていませんがまだまだ条件は良い筈です。もう一ヵ所は、前回の最後の画像のバス停:磊々峡入口の傍の崖の壁面です。鉄分で少し茶色になっていますがかなり広い面積を綺麗に表面を加工した石材が覆っていますので、様々な捕獲岩・混在岩を観察する事が出来ます。
およそ10年前に里センター内で見た秋保石です。「含有孔虫浮石質角礫凝灰岩」等と言う学名が付けられていますが、別に有孔虫がガサガサ入って居る訳ではありません。
海底に堆積したので、有孔虫も巻き込まれているという程度です。千葉県の房州石にも運が良ければ円盤型の小さな有孔虫を観察出来ます。と言っても、私でさえ「一回コッキリ」です。
里センターの外のトイレの外壁に貼られている秋保石です。6枚はこの場所の、残り三枚は新秋保橋:磊々峡入口前の石の壁の部分です。スケール無しで申し訳ありません。
左側に粘土化した部分があります。大谷石も海底堆積の部分にあの「ミソ」が多く観察されます。大谷でも半ば圧密された部分がミソになっていない部分が有ります。

凝灰角礫岩の中に更に凝灰角礫岩が入っているのでややこしい話ですが、それも、一つの特長として捉える事が出来ますね


この画像から磊々峡入口の秋保石です。普段から雨ざらしなので鉄分が錆を出して赤茶色が強くなっていますが、岩質には影響無いようです。

明日からは奥松島の「野蒜石」採掘跡やこの石材の画像をご案内する予定です。

2020年5月25日月曜日

岩石と地層の表情:026;洞窟堂・森幸石材・手掘り丁場跡

遊歩道を終えて、そのまま県道を仙台方面に進むと左側に「森幸石材」さんの作業小屋が見えてきます。会社は別の場所に在り、此処は採石をする時だけの作業場の様です。
石を取るのは見上げる丘の上です。ここを通り過ぎると県道と分かれて平行しながら坂を上ります。この先に凝灰岩の鳥居の有る洞窟堂があり、その先の崖を回った処の左手に手掘りの採掘跡が残る小さな石切場跡があります。これを過ぎると間もなく新秋保橋、或いは磊々峡入口のバス停です。バス迄時間が有ったらバス停傍の石の壁で秋保石を堪能して下さい。
森幸石材さんの採掘場の作業小屋と上の方の黄色で囲んだ辺りが実際に採掘をやって居る場所です。企業の事務所は仙台に向って暫く走ると確か右手にありました。下流側には幾つか小さな採掘場が今も残っている筈です
この付近で採掘される石材の一例です。これは比較的礫が少ない表面です。
洞窟堂という「堂」なのに鳥居が在ります。 石祠や五輪塔が安置されています。大きく凹んだところはタフォニーと呼ばれる「塩害風化」です。
鳥居の表面を拡大して見ました。
洞窟堂を過ぎて手掘りの丁場跡の少し手前で後ろを振り返るとこんな風景です。そうです。これも冬場のフィールド調査です。
見る事の出来る手掘りの石切場はごく小規模です。実際にはその先が凄まじい落差の石切跡なのですが、木々に隠れて観察する事が出来ません。
石切の際の一番面倒なのが、この様に壁面から奥に掘り始める時なのです。ここはこれ以上掘る心算が無く試掘程度だったのでしょう。少し手軽な方法で奥に1~2段掘り込んだだけの様です。でも、これも「ツルハシ」を水平に降らなければならないので、それなりに大変な作業です
手掘りの石丁場はこのようにツルハシの目が綺麗に平行にサクサクと入っています。一段毎に歯の入る方向が大体逆になる事が多いようです。一段は25~28cm程度です。
石材の厚みは大体 24 cm を目途に切り出しますが、石材を「起こす」作業の良し悪しでこの段差の厚みが変わります。
森幸石材さんの石切場を、新秋保橋を右岸側に渡って、大きな旅館の裏手から望遠レンズで写したものです。周囲は西洋の城のように切り立っていますが、現在の作業は松の木があるやや低い方でやって居るのを、別の機会に見掛けました。
手掘りの石切場(画面左端)を過ぎると斜路で県道の高さに戻ります。バス停はこの画像のもう少し左側になります。実はこのコンクリートのように見える部分は全て秋保石です。次回で少しその画像をご紹介します。