同じ石蔵壁面の別の部分を観てみよう。尚、この石蔵は、駅から鋸山方面に歩いて川の傍にあります。
中央部分を拡大します。
右下の白い筋が鮮やかな石材を詳しく観てみます。
約左半分
約右半分
筋の部分だけの拡大です。
2016年6月18日土曜日
2016年6月17日金曜日
浜金谷 房州石造石蔵 (1)
2016年6月15日水曜日
瑪瑙の部分拡大画像
ブログの掲載数が1600件を越えると、時折前に使った画像を重複して使ってしまう事が有る。古い画像を使わなければ良いのだろうが、時折、この画像は使っただろうか?と思った時に、インデックスだけでは探し切れないので、これはその古い画像の一つなのだが、他の画像を探していたら出て来た瑪瑙のデジカメによる接写画像。
画像はスケールが無いので2枚組で、最初の一枚が横幅4mm程度。次の画像がその何処かの細部です。数ミリ厚のサンプルなので顕微鏡の高倍率時と同じくシャープな画像は得難いのですが、手放す事にしたサンプルをチョット良く覗いておこうと思った次第。メノウの不思議な構造の一端には触れる事が出来そうです。駄目なら駄目で、まあ、素人にはトライする事が大切なのです。
画像はスケールが無いので2枚組で、最初の一枚が横幅4mm程度。次の画像がその何処かの細部です。数ミリ厚のサンプルなので顕微鏡の高倍率時と同じくシャープな画像は得難いのですが、手放す事にしたサンプルをチョット良く覗いておこうと思った次第。メノウの不思議な構造の一端には触れる事が出来そうです。駄目なら駄目で、まあ、素人にはトライする事が大切なのです。
2016年6月14日火曜日
江戸川区 下今宮香取神社 白河石の祠
白河石と芦野石は溶結度が異なる事と、ユータキシティック構造を示す圧密された軽石のサイズが大きく異なるが、特に白河石の場合は白色の岩片が多数入っているのが大きな特徴と言える。少なくとも、最近の白河石の製品には白色岩片が多く含まれている。
昭和52年と約40年前に建立されたこの祠にはその白河石の特徴を全て兼ね備えている。
水垢の汚れがあるがこの石材は横倒しの画像。
本末転倒になってしまったが、下今井香取神社の拝殿の御姿。右手奥の格子の中に祠がおわす。
使われている石材とその想定される産地:ユータキシティック構造が顕著。そのサイズから福島県白河市に産出する白河石と思われる。
資料整理番号:No.131237-02, 最新の調査時期:2016年06月10日
地理院地図10進座標系:35.669722,139.882050
昭和52年と約40年前に建立されたこの祠にはその白河石の特徴を全て兼ね備えている。
水垢の汚れがあるがこの石材は横倒しの画像。
本末転倒になってしまったが、下今井香取神社の拝殿の御姿。右手奥の格子の中に祠がおわす。
使われている石材とその想定される産地:ユータキシティック構造が顕著。そのサイズから福島県白河市に産出する白河石と思われる。
資料整理番号:No.131237-02, 最新の調査時期:2016年06月10日
地理院地図10進座標系:35.669722,139.882050
2016年6月13日月曜日
No.041009-06.仙台市秋保町 磊々峡:らいらいきょう
秋保石はその昔にはこの名取川が作り上げた「磊々峡」の奇勝の川底で採掘していたとの話を聞いた事が有る。2010年の5月に再就職先の出張で仙台に行く機会を得たので、名取川河床で観察されると言う枕状溶岩を探す事と、上流のこの磊々峡を歩く事を密かにスケジュールに入れていた。
当時は望遠レンズを持っていなかった(この頃はキヤノンパワーショットSX10 を使用していた)ので
激しい降雨と相まってクリアな画像を取れなかったが、一瞬、圧密構造(ユータキシティック構造)を疑ったが、これは違った様ですね)
予想だにしなかった再就職が出来て、しかも出張が多く、それなりに厚遇して頂いて、随分と各地の地質について見聞を広げる事が出来たのは幸せだった。
当時は望遠レンズを持っていなかった(この頃はキヤノンパワーショットSX10 を使用していた)ので
激しい降雨と相まってクリアな画像を取れなかったが、一瞬、圧密構造(ユータキシティック構造)を疑ったが、これは違った様ですね)
予想だにしなかった再就職が出来て、しかも出張が多く、それなりに厚遇して頂いて、随分と各地の地質について見聞を広げる事が出来たのは幸せだった。
2016年6月12日日曜日
No.131237-01. 江戸川区 桑川神社 灯籠の基壇石材
岩相そのものは、特に珍しいものでは無いのだが、それが現存して居る場所の事を考えると「何故、此処に?」と言う思いと、本当に此処まで運ばれて来たの?何処か他に似たような石材が在るのだろうか?と言う疑念がふつふつと沸いてくる。そんな石材がある。
創建は不明だが、文久年間(1861-1864)に火災で全ての古文書が失われたと言うから、灯籠の建立が文久年間の直後だとすればありえない事でもないとは思うのだが、一個だけこの判断に合致しない石材があるので、判らないものだ!
尚、灯籠なのだが、上部構造は作り替えられているので参考にならない。中間部にこれだけ堅い石材を使いながら、何故、基壇背k材が、その中間部の産地と関係ないものになったのかも興味深い。石材の画像だけを御案内する。画像は夫々切石1個の画像とその一部の詳細図の組み合わせ。
中には風化剥離した地肌がこんな緑色岩が混じっている
創建は不明だが、文久年間(1861-1864)に火災で全ての古文書が失われたと言うから、灯籠の建立が文久年間の直後だとすればありえない事でもないとは思うのだが、一個だけこの判断に合致しない石材があるので、判らないものだ!
尚、灯籠なのだが、上部構造は作り替えられているので参考にならない。中間部にこれだけ堅い石材を使いながら、何故、基壇背k材が、その中間部の産地と関係ないものになったのかも興味深い。石材の画像だけを御案内する。画像は夫々切石1個の画像とその一部の詳細図の組み合わせ。
中には風化剥離した地肌がこんな緑色岩が混じっている
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