2011年7月16日土曜日

古墳と房州石:ネタ切れ中断の御報告

手元に千葉市教育振興財団埋蔵文化財調査センターから発行された平成18年度(2008年)版の「埋蔵文化財調査センター年報20」があり、この資料の24-54頁に「千葉市古墳集成 -千葉市の古墳を考える①-と題された報文があります。これによると、千葉市内の古墳この資料に記録されているものだけで893に登るのだそうです。これらの古墳の中で、今回のテーマである穿孔貝の生痕化石がある富津磯石を使用した石室がどれだけ有るのか?無いのか?判りませんが、少なくとも横穴式石室を持つ古墳は約10.8%の93基です。これだけの古墳の数が有りながらさきたま古墳群の将軍山古墳に在った「房州石」を使った古墳リストに何故千葉市の古墳が含まれて居ないのか?疑問です。
山武郡や八日市場の古墳は、その泥岩の産地を銚子附近に求める事は容易な気がするので、多摩川流域の馬絹古墳や野毛大塚古墳同様、今回のリストから除外する事は容易だと思うのですが、鋸山周辺で富津磯石を採石し、海岸沿いに移送したのなら木更津や市原にその泥岩を使用した古墳が在るのは頷けるのに、突然その分布地が千葉市の領域を飛んでしまうのは何故か?或いは狭い東京湾の中なので、途中から東京湾を横断して中川水系に直接入ってしまったのかもしれませんが、貝化石を大量に含む泥岩を石室に使っているケースは附近にも多く見受けられるのですから、無いのが不思議としか言えません。

まだまだ、解明したい事は沢山在りますが、残念ながら手元に利用出来る資料が有りません。整理すれば大量に掻き集めた資料群から掘り出すことは出来るでしょうが一時凌ぎになってしまいます。
そう、実は、「ネタ切れ」です。それに、このところ本業の火山地質の方が少々疎かになって居るので、興味深いテーマではありますが、今日を持って暫く古墳と富津磯石の関係についてのテーマは中断する事に致します。
完全にテーマを放棄する訳では有りませんし、秋から冬に向けての計画もありますが、兎に角「ネタ切れ」なので、暫く地質の画像中心のブログに戻ります。
 この古墳と穿孔貝の生痕化石がある泥岩に興味を持ってご覧頂いた皆さん有難う御座いました。
宜しければ秋口か年末にでももう一度このブログをクリックして頂ければ幸いです。多分、新しい材料を駆使してこのテーマで頑張っている筈です。

酸素欠乏事件のチャート露頭見学記

ここ数日、ブログの更新をお休みしておりましたが、岐阜県と愛知県の露岩石露頭を巡ったり、岩石採集の旅をしていました。これは木曽川の犬山の対岸になる宝積寺と言う場所のチャートの露頭です。赤錆色のチャートが複雑に折れ曲がって広がる中に、この様な真っ黒なチャートとそれを取り巻くように緑色のチャートの層が広がっています。この黒いチャートが海底で生成された時期には、地球から酸素が欠乏し殆どの生物が絶滅した時代のものなのだそうです。
此処は実に感動でした。

2011年7月11日月曜日

房州石・古墳(T-10) 補遺;資料「将軍山古墳と房州石」 (2)

前の画像の「凝灰岩地域」をもう少し追ってみたいものだ。でも、当方は古墳時代については全く知識が無いので、一体何処にどんな資料が在るのか、其処から調べなくてはならない。まあ、のんびりやってみるか?
この資料に引用されている「若松:1982」とは表記文献の「引用文献」の項目から、「菖蒲天王山塚古墳の造営時期と被葬者の性格について;土曜考古 第6号」であるらしい。残念ながらこの原文献にはアクセス出来ていないのだが、この資料には興味ある資料が他にも掲載されている。例えば資料の35頁には同じ文献からの引用として「第4図 角閃石安山岩質石材削材の平均用材の面積と産出地からの距離との関係」がある。 
此処には幾つかの例外はあるものの、角閃石安山岩の産出地を群馬県と埼玉県境の利根川水系として、この石材のを使用している古墳では「産出地から遠くなるほど、つまり下流に向うほど小さくなり、かつ均等化する事実をつかんだ。」と書かれている。
尚、原文献の著者:若松良一氏は「さきたま資料館学芸員」、「将軍山古墳と房州石」の著者:高橋一夫氏は埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長、本間岳史氏は埼玉県文化財保護課主査(何れも関係論文執筆当時)である。
本、資料の第27頁には、(3)「房州石」の原産地の特定とその根拠 としてその一部を抜粋して紹介すると、「上総湊から海岸沿いに南下すると、竹岡漁港附近から萩生附近にかけては、良く成層したスコリア質の凝灰角礫岩ないし火山礫凝灰岩が卓越する。これらの岩石は竹岡層及び萩生層のものである。
さらに南下して金谷漁港に近づくと、稲子沢層の灰色泥岩ないし凝灰質砂岩が露出する。凝灰質砂岩は塊状のものと層状構造を示す部分とがある。(一部略)
稲子沢層の岩質及び岩相の特徴は、前述の将軍山古墳や柴又八幡神社古墳の石室などを構成する「房州石」のそれと非常によく一致する。(一部略)
萩生層や竹岡層の転石を用いずに何故稲子沢層の転石を用いたか、また何故穿孔を有するものを選んだかは不明である。筆者らは、貝殻を内包するあばた状の無数の穴があいた特異な岩相が石材を選択する際に何らかのインパクトとして働いたのではないかと考えたいが、今後の課題である。」(以上)

さて、所要で南房総まで出掛け、そのまま帰宅するのはもったいないので帰途に、千葉県立博物館の海の分館のそばの勝浦の海岸で、海岸の崖を少しだけ観察して来た。
最初の画像は、ウロチョロした海岸の崖の一つ
これは、上の画像の一部
この様な美しい堆積層もある。尚、この附近は岩石用ハンマーで叩くと一応岩石らしい音がして手応えが有る。
この下の画像は、上の2枚の画像より下に在るのだが、妙に柔らかい泥岩で、勿論、叩くと「ボコボコ」と言った音がする。この様な地層は水分を吸い膨張し、潮が引くと乾燥してこの様な亀裂がはいってしまう。当然、この様な地質では古墳には使用できないのである。
恐縮だが、今週の後半に岐阜県に岩石採集に旅する事になり、慌てて準備をしている状態で、此処暫く 多分日曜頃まで このブログの更新が出来ないかも知れない。

2011年7月10日日曜日

房州石・古墳(T-9) 補遺:資料「将軍山古墳と房州石」

手元に、埼玉県史研究 第29号に掲載された表記の「将軍山古墳と房州石」と題する18頁の表記の文献があります。著者は高橋一夫氏と本間岳史氏のお二人です。中川水系総合調査の一環としての調査を行われた様です。
http://www.saimonjo.jp/13_kankoubutsu/kenshiken1.html
私がこのブログで房州石を取り上げて暫くして、或る方からこの論文のコピーを頂きました。私が調べて居る事と重なる部分が有りそうなので、取り敢えず目を通すのを辞めてある程度進んでから拝見する事にしました。基はと言えば、埼玉県の歴史に係る事から始まった事ですか、埼玉県の博物館で聞いた「房州石だから房州石なんだよ!」と言う怒鳴り声と異なる、興味深い文章でした。
埼玉県内にお住まいの方ならば、地元の図書館などに相談すれば比較的容易に入手が可能な資料だと思いますが、他の県では入手が中々困難な代物の様です。千葉県の図書館横断検索ではこの号の「埼玉県史研究」は何処にも蔵書リストには在りませんでした。
 この論文では、古墳に使われてい居る穿孔貝の生痕化石がある泥岩を「房州石」、鋸山近辺で採掘され建材として使用されてきた凝灰質砂岩を房州石(「 」無し)の房州石で記載しています。更に、5箇所 ① 将軍山古墳 ② 法皇塚古墳 ③ 柴又八幡神社古墳 ④ 赤羽台古墳群 ⑤ 金鈴塚古墳の石室の泥岩を調べ、その岩質を詳細に記述し、これらの岩石は鋸山付近の海岸の「稲子沢層」の転石として居ます。此処には、小生が見る事の出来なかった柴又八幡神社古墳の石室についても詳細に説明されています。
この資料の33頁に第3図「石材別石室分布図(柳田;1967・若松;1982から作図)と題された下記の図表があります。論文の趣旨が「中川水系総合調査」の一環として将軍山古墳の石室に使われている「房州石」についてなので、千葉県内の資料は手薄ですがこれは埼玉県の調査なのでしょうがない事です。  長くなり過ぎるので続きは明日に!