2020年7月18日土曜日

岩石と地層の表情:081;船生石という白い凝灰岩

白い凝灰岩は、この連載でも取り上げた「天神山石」だけでは無く、伊豆の下田市内産出のものや、小田急の湯本駅裏の白地蔵石切場の湯本石や、大磯などにもありますが、大谷石の分布領域から少し外れた塩谷町船生にも存在しました。場所は中禅寺湖(戦場ヶ原・湯ノ湖)を水源とする大谷川と、五十里湖等のダム群を水源に持つ鬼怒川の合流点のやや下流近くです。
産総研のシームレス地質図を使用しています。目標は塩谷町佐貫の佐貫観音ですが、地図の左上付近の「道の駅 湧水の郷しおや」が船生(ふにゅう)バイパスから「宇都宮船生高徳線」(県道77号線)も参考にして下さい。
青色で囲んだのが「佐貫観音・佐貫石仏」です。鬼怒川を渡る橋は現在は新しくバイパスが出来ていますが、点線で示した旧道からは河床の白色凝灰岩の複数の筋状の浸食地形が観察出たのですが撤去してしまった様ですね。緑色は比較的新しい採石場跡地です。コンクリートの積込設備の廃墟が見えるので「砕石」目的に始めたのが強度不足等で撤退したのかと想定しています。切石等の建築用石材を採掘したようには思えません。赤色は船生石(ふにゅういし)の石切場跡で、既に採石を辞めておられる様です。石切場の向かいのお宅が所有者と思われますがまだ訪ねていません。
佐貫観音の凝灰岩露頭です。この付近の岩石露頭の素晴らしい画像が有る日本火山の会の会員の秦野さんの岩石写真集「磐座・巨石」の中の「佐貫観音」のサイトを参照下さい。
http://hatazoku.d.dooo.jp/sanuki2.htm
鬼怒川河床の白色凝灰岩の露頭です。橋は撤去されてしまった旧道です。現在はこの下流の露頭が切れた場所に新しいバイパスが出来ています。
河床露頭の状況です。この様に複数の筋状の河道が出来る浸食形態をなんと言いましたっけ?最近は用語が出て来ないので申し訳ない事です。
岩石表面に近付いて撮影したものです。かなり均質で硬そうな白色凝灰岩です。これなら、五輪塔を造るにも十分な量とサイズが確保出来そうに思いました。
緑色で示した採石場跡です。左下のコンクリート施設はダンプトラックへの積込用ホッパーの様な構造です。
破断面が出ている辺りの画像です。かなり固さはある様ですが、或いは亀裂が多いのではないかと想定されます。
船生石の石切場跡です。2000年頃はまだ稼働していた様に思うのですが、当時はこの付近には目を向けていなかったので所在だけは確認していましたが、詳しい調査をしなかったのが残念です。
前の画像の手前に移っている作業所の中の船生石の切り石在庫の状態です。大谷石と異なり、ミソ等も無く上質な石材と思われます。
船生から比較的近い場所で見掛けた石蔵で、質感などからこの船生石を使ったものと想定している石造建築物です。綺麗な石材です。

2020年7月17日金曜日

岩石と地層の表情:080;守谷海岸の石切場跡

勝浦市の鵜原から更に南に下り、興津の手前に守谷海岸があります。この海水浴場の海岸の、南側の漁港の奥に短い素掘りのトンネルがあり通り抜けると波蝕棚の様な景観の石切場跡が広がっています。漁港なので、何かと車の出入りが多く、余所者が車で出入りするのが嫌がられるのですが、海水浴などのシーズンを除けば、多少心臓に毛の生えている方々ならば旨く車を止められると思います。
切り出した石材を運び出すために開かれたと思われる素掘りのトンネルはやや四角い形状に掘りぬかれています。この形状はトロッコか車力などで運び出したのではないかと思われます。
素掘りトンネルを抜けると覆い被さるようにオーバーハングした崖が見え、その前にかなり広い多少の凹凸が在る平場が広がっています。これが石切場です。
別の方角を見ると平らに成層した地層が広がっていますが、画面左手の方で、白鎖線を置いた辺りに断層が斜めに走って地層の色も、堆積状態も変わっています。
石切は水の溜まり具合から地層に平行に平らに掘り起こしながらの採掘だった事が判ります。地層に平行に切る事で、矢板を打ち込んで剥がす作業がやり易くなります。比較的柔らかい三浦半島の佐島石や鎌倉石・鷹取石等と同じですが、堆積環境が異なる鋸山の房州石とはこの点が大きく異なります。(斜めの縞模様が多く見られます)
水底には、ツルハシで掘り込んだ石材の形状を示す跡が残っています。一定の深さにツルハシの打ち込み深さを保つのも結構熟練の作業でしょう。
この様に平場での石材採掘では、最初にどの程度の高さの山(丘?)が在ったのか判らないのが残念です。但し、前の崖の画像に観察された断層がこの平場も通過していますので、この掘り込みの右側は石材には適さない恐らく泥岩の天津層だろうと推定できます。
底生生物の生痕が観察されます。
石切跡の崎の先端側から素掘りトンネル側を眺めた図です。左手に人が立っています。この場所だけでは無くこの周辺には他にも垂直の崖の形状からそれと判る石切場跡が散在しています。
房総半島南部での石切場や凝灰岩質石材の使用状況を国土地理院地図にプロットしたものです。x印は石切場跡。赤丸は所謂「房州石」が使われている場所。赤色星印は「高宕石」と言うやや特殊な石灰質が豊富な強度の高い石材。山間部に産出し山からの搬出に人背で運ばなければならなかったのでごく限られた範囲にのみ採用されています。青丸はあまり有名では無いけれど一応石材として採掘された凝灰岩質石材が用いられた場所。数か所に分散していますが生産地と消費地が至極接近し提案す。君津市や三浦半島側に数か所見える緑丸は伊豆半島の凝灰岩質石材が使われている場所です。南房総には X 印の石材採掘跡が海岸線を中心に結構分布している事がお判り頂けると思います。守谷海岸は図の右から三番目のX.
千葉県北部・埼玉東部・東京都北東部を含んでいますが、緑色は前の地図と同じく伊豆半島南部から運ばれて来た凝灰岩質石材が石蔵や、擁壁、階段、礎石等に用いられている場所です。赤色の房州石の類は意外と苦戦しています。これは伊豆の石材が先行し大量の実績を築き上げてから房州石が地の利を生かして参入した事を暗示しています。
地図の右端の方等に淡褐色の丸がありますが、これは筑波山麓から来た下総型板碑用の泥質片岩です。下総型板碑にはこの泥質片岩と石灰質の飯岡石が使われています。

2020年7月16日木曜日

岩石と地層の表情:078;素掘りトンネル(2/2)

房総半島の東側に、妙に沢山の断層が集まっている地域が在ります。今日は鵜原の素掘りトンネルと、漁港付近の断層露頭をご紹介します。千倉あたりからこの鵜原・勝浦付近では主に地元で消費された数種類の凝灰質石材が採掘された事が判っていますので、
時々、特急電車に揺られて主に海岸線の露頭を探して歩く事があります。素掘りトンネル中心の心算が画像を整理していたらトンネル内部の画像は一枚だけになってしまいました。
房総半島の中央部のシームレス地質図です。赤線で大きく囲んだ範囲には断層が数多く記載されています。保田と鴨川を結ぶ低地帯とその南北には断層が多いのは判りますが、さてこの付近の断層はどのように発生してきたのか?面白そうですよ!
今日の舞台はその中の小さな赤い円の範囲です。
地質観察会の時の、GPSデータの一部です。鵜原駅から徒歩で海岸に向います。西側の砂浜は一部に泥岩が露出しています。緑の丸の部分が素掘りトンネルの一つで青い丸は断層露頭の観察場所です。場所は「勝場漁港」と言います。素掘りのトンネルは他にもありますが残念ながら画像がありません。赤矢印は「毛戸浦」と言う地名で三浦層群天津層の泥岩が露出しています。生痕化石や、謎の火山礫が観察される事です。黄色矢印は石切場跡が観察される場所です
赤矢印のポイントで観察される生痕化石の例です。様々な生痕化石が見られますが、どちらかと言うとこの次の画像の方が興味が惹かれます。
天津層の中の鍵層“Am91.5”のやや上に卵からこぶし大の火山岩礫が含まれる層が在ります。この付近は、深海性の泥岩の筈なので本来ならばこのような岩塊が含まれるのは変なのです。天津層の露頭としてはこの付近だけにこの様な岩塊が含まれているのでその起源は謎に包まれています。氷河起源の氷山が運んできて溶けた際に落下したという説があります。
やっと素掘りトンネルの御登場です。このトンネルの西側は砂岩主体の清澄層に入ります。さて、この分厚い白い鍵層の名はすっかり忘れてしまいました。
トンネル西側の地層では実は結晶片岩の小さな礫が観察される事が在ります。房総半島では私の住む柏市の地下 1,500 m には三波川帯の結晶片岩が在る事がボーリング試料から判明していますが、天津層が形成された時代にはこの地層の近くに露頭が在ったのかもしれません。
黄色い矢印の石切場跡です。結構落差のある垂直の壁が残っていますが、波打ち際なので表面は風化でノミの跡はほぼ観察出来ません。勝浦の紹介の序に、明日はこの少し南の「守谷海岸」にある石切場をご案内しましょう。
「勝場断層」の露頭説明図を見て頂きましょう。これは博物館の地質観察会のテキストに掲載されたものです
断層露頭とやや広い範囲の画像です。勝場漁港の御崎の方に燃料タンクがありますが、その裏手になります。画像の左手にカメラを振ればタンクが写る筈です。
露頭の拡大図です。露頭の説明図と比較して下さい。

2020年7月15日水曜日

岩石と地層の表情:078;素掘りトンネル(1/2)

三浦半島の観音崎や猿島の素掘りトンネルをご紹介したが、三浦と地質が繋がる房総でも素掘りのトンネルは結構数多く存在している。恐らくそんな統計は存在しないだろうと思ったが、なるほど、大手処は結構歩いておられる方も多い様だが、ザっとチェックした範囲で画像が無さそうな素掘りトンネルの画像を少し紹介します。
場所は鋸山山麓で、あまり歩く人も無い様なので下手をするとここまで辿り着けないか、この先で通行出来なくなり行き止まりになる可能性も高い。特にここ数年台風被害が酷く、ここまで復旧の手が入っていない可能性が高いので、敢えて場所は記載しないが道に異常が無ければJR駅から1時間程度の距離にある。
昔は、軽自動車くらいは走れたのだろうと思うのだが、途中に少なくとも三か所以上の待避所が設けられている。照明は無いので懐中電灯を持たないと無理かもしれない。
地層的には「稲子沢層」の凝灰質砂岩泥岩互層で傾斜角は20度から56度程度の筈で中に広域テフラ OK と HK が在る可能性も疑われるのだが内壁が白い黴で覆われているので探すのは諦めた。
道路は途中から細くなり、むしろ下の河床を歩く方が楽な様な雰囲気の場所も在る
ほぼ全景を見通した状態。左手に三か所待避所が見える。左右両方に在ったようだが、いろいろ写真を撮る時に区別する努力をしなかったので、全部で何か所あったか判らなくなった。
待避所は数人は十分入る事が出来る。昔はハイキングに通り抜ける人も多かっただろうと思うので、長さの割に待避所の数が多いとおもう。
稲子沢層は石材にするには強度不足なので風化でやられている部分も多い

素掘りトンネルの面白い所は地層の走向・傾斜が判り易い事。
茶色の鉄錆が多い地層が二本走っている様に見えるが・・・


2020年7月14日火曜日

岩石と地層の表情:077;元名石を用いた汐止橋

最近、ご先祖が鋸山南面での「元名石」の採掘に関わっておられた方の御子孫から大正時代の石材の受払い帳を拝見し、関連の写真なども拝見する機会に恵まれた。保田で最大の石切場を保有していた関口家と、丁場を任されていたご先祖との石材受払証文であった。
土木学会が「土木遺産」として認定されてから、直ぐ傍に駐車場が設置されたり、先日ある方々をご案内した処、壊れそうになっていた橋の袂の擁壁が補修されていてほっとした。
「元名石」鋸山北面のいわゆる「房州石」よりも早く採掘が始められた事が判っているのだが、残念ながら伊豆と同様に、房州石に押されて少し早い時期に操業を辞めざるを得なかった為に、文書類が失われている。
この「汐止橋」も鋸山南面の「元名石」では無く、鋸山北面の「房州石」ではないかと説を唱える方もおられるようだが、明治28年に架橋された「汐止橋」から僅か650m程の場所に元名石の積み出し港があったのだから、敢えて房州石を用いる必要が無い。
しかも、鋸山北面でも「新元名石」等の商標を使う程信頼の有った石材なのだから
下流側から見た「汐止橋」位置は国土地理院やGoogle で使える経緯度10進表示で“35.144407,139.837172”。駐車場は十分な広さが在るが、周囲の道路はやや狭いので慣れない方はチョット怖いかもしれない。ナニ!大丈夫だってさ!!
橋の袂の標石これは安山岩。
標石に「関口」の名が見える。関口家は旧農商務省地質調査所発行の「千葉県産建築石材試験報文」の「保田町」の項にも当地最大の石切場であると記載されている。
特長の一つ:輪石が四重に見える事。勿論、力を分散支持する輪石は一番内側のもので、他の「輪石」は根元まで走らず途中で止めている。
最も内側の輪石以外は途中で止まっている事が判る画像。更に布積の石材が斜めに走っている事が判る。反対側は雑草が在り見えないが近くから見ると同じ傾斜である事が判る。
尚、右岸側の石材は下の方では水平な積み方になっている。岸からの距離が短い事も有るのだと思われる。
左岸下流側の下の方の石済み。輪石は既にひとえになっている。石材の表面形状が、短いものと長いものがほぼ交互に並んで組まれているが、これは石材を内側に伸ばしておくことで側壁の強度を増す工夫で有り、後に横須賀などで「ブラフ積」と言われる擁壁の積み方の原型であろう。
この付近の表層地質は「河床および海浜堆積物」と記載されているが、河床には天津層の泥岩が露出しており、橋の荷重を支えている。天津層は海岸近くにも小丘を構成して露頭を構成している。画像は左岸側。
右岸側の輪石を橋の直下から見た図。尚、満ち潮の際にはこの付近まで海水が上がってくる可能性が有るが、普段の晴天時には川の流れは細く、容易に橋の直下に入る事が出来る。駐車場から河床までは階段が在る。
輪石内側の恐らく中心付近を写したもの。前の画像とこの画像の白丸で囲んだ部分は同じ部分を写している。
房総半島南部には、先般の「眺尾橋」とこの「汐止橋」以外にも館山や千倉方面まで数か所に石橋が知られているが何れも観察が難しい場所にあるので、その中から比較的探し易い館山市の「巴橋」をご紹介しておきます。この橋は川の水位が有るので深い長靴が無ければ橋の直下には入れない。