2011年3月5日土曜日

房州石・古墳 (H-1) 弁天山古墳

青掘りからJRで一つ南側の大貫にある、砂丘に築かれたこれも大きな古墳。現在は石室部分が大きな収蔵庫に復元して納められている。古墳そのものも復元されているが、築造時の規模としては全長87.5mらしい。収蔵庫内に見られる小さな泥岩・砂岩。
ここの古墳で、不思議なのは3個の天井石の中で、2個が他の石材と余りにも技術レベルと材質が違いすぎる事。
散乱しているのは穿孔貝の生痕化石の在る砂岩で形もまちまちだし、天井石の1個はやはり加工らしい事も施されていないのだが、2個の天井石が妙に技術レベルが高く、石材もしっかりしている。石室の壁に使われた生痕化石のある小さな岩片に対して天井石が不釣合いに大きい。
とても一時にこの様なちぐはぐな築造を行ったとは思えない。後世で追葬を行う際に、新たに2枚の天井石を搬入したのではないかと、これは素人の勝手な想像している。私は建築屋ではないが元機械設計を職務としていたが、こんな側壁構造と天井とがアンバランスな建造物や機械構造は尋常じゃないと思うのだが・・・。

2011年3月4日金曜日

房州石・古墳 (G-4) 青掘三條塚古墳

結局、古墳の天井石を確認出来なかったので、此処にも舞い戻って来なかったのだが、撮影した画像をチェックするとこの画像には層の乱れの様な部分が見えるので、もう少しキチント撮影すべきだったと反省しているが、これはもう一度歩かなくてては解決出来ない。
5月26日追記:5月22日にこの地を再訪し、天井石を確認出来たので、5月26日からの項目に6枚の画像を追加しています。ご覧頂ければ幸いです。尚、古墳の名称を現地の表記に合わせて「三条塚」から「三條塚」に改めました。

2011年3月3日木曜日

房州石・古墳 (G-3) 青掘三條塚古墳

飯野神社境内の石碑は二つ有ったのだが、もうひとつの石碑にも礎石の部分にはこの様に穿孔貝の生痕化石がある砂岩が使われています。石碑は元々何処か別の場所に在ったのを移転したのでしょうか?石碑を製作したのなら礎石の部分ももう少し丁寧な作り方をしても良さそうなものだと思うのだけれど・・・

2011年3月2日水曜日

房州石・古墳 (G-2) 青掘三條塚古墳

石碑の礎石部分は、この様にモルタルで固められているので最近のものだと思われるが石碑の碑文は、素養が無いので全く読む努力も実はしなかった。
神社には神主殿は居られないとの事で由来などを確認する事は出来なかった。

2011年3月1日火曜日

房州石・古墳(G-1)青掘三條塚古墳

この古墳は現地に立てられた説明文では、墳丘長122m・後円部径x高:57mx6mで、二重周溝を含めると全長193mに達する大きなもの。
此処の後円部の一部が崩されて中腹に石室に使用された天井石の一部が露出しているとの事だったので、どんな石材が使用されているのか調べたいと思い現地を訪ねた。元々は周囲の遺跡などを廻る「飯野ふる里散歩道」が設けられていたらしいのだが、落葉に埋もれてハッキリしない。野兎とは出会ったが石材とは出会えなかった。
或いは前方部を調べていたのかもしれない!と思うのだが何れ再訪したい。(5月22日再訪)
古墳を含む一体が「飯野陣屋」として堀に囲まれているのだが、旧本丸の一部に飯野神社が在りその門前の石碑、礎石部分に穿孔貝の生痕化石が残る砂岩が採用されていました。「房総の古墳を歩く 改訂版」101頁の解説には、「埋葬施設 横穴式石室(無袖式)、砂岩(自然石乱石積)とあるので、この礎石に使われた砂岩が、古墳から持ち運ばれたものではないかと想像している。

2011年2月28日月曜日

房州石・古墳(F-7)金鈴塚古墳

これは古墳の上にポツンと取り残されていた岩塊。生痕化石の大きさから判断してもお判り頂けると思うが、サイズはかなり大きい。しかも画像はその全体を捉えている訳では無くもう少し大きい。しかも、天井石にしては厚みが在り過ぎるし、幅がやや足りない。石室の石積みに利用しようとしたにしては形状に難が在るように思えるのだが・・・

2011年2月27日日曜日

房州石・古墳(F-6) 金鈴塚古墳

金鈴塚古墳の石室には生痕化石のある軟質の泥岩・砂岩ばかりではなく、この様に白い火山灰~軽石質層や、大粒のスコリアを含む層が観察される岩片も含まれています。やっと、岩の上に差し込んだスケールから見て、スコリアのサイズはかなり大きい。南九州の新燃岳火山の噴火では数cmサイズのスコリアが10km以上まで風に流されて飛散し、車のガラスを割って話題になっているが、これだけの量の層を築くのはこれらのスコリアが堆積した時代には火山が10kmも離れていない場所に在ったに違いない。幻の火山に想像が膨らむ。