2020年11月27日金曜日

偶然、美しい石蔵に辿り着いた

 昨日26日に久し振りに船橋市を歩いた。予定した時間が余りなかったので、二か所だけを回る予定だったが、最初の場所でお会いした同年齢の方から、私の地図を見て「このお寺も良いよ!」とお話しいただいて立ち寄り、明治中頃の伊豆の石材に出会う事が出来た。その後、次の場所への移動中にこの石蔵に出会った。アドバイスを頂かなかったら出会えなかった。

房州石の石蔵だと一瞬思ったのだが、石材の一部にほぼ間違いなく伊豆だろうと思われる凝灰岩が使われている。明治なら房州石は芦野石との組み合わせがほぼ定番なので、全体が伊豆の凝灰岩と考えるべきなのだろう。

それにしても堆積模様が美しい。フィールドワークはこれだから辞められない。

今回は個人のお宅なので、取敢えず所在は伏せておきます。






2020年11月25日水曜日

房総半島南部の蛇紋岩

 先日、房総半島の内房の鋸山付近と、外房の勝浦市鵜原郷で、以前撮影した石造物の補足用画像を取りに回った時に、鴨川市内で何度も底を通過していながらこれまで気付かなかった古い墓地が有り、墓石以外の石造物も数多くあるのに気付いた。神社や古刹にも時折、古いものが残されているが、どちらかと云うと、地図にも名前が記載されていない様なこの様な墓地に、意外な歴史の証拠が見つかる事が有る。

日が傾く前に、次の目的地の写真を撮りたかったので半ば心急ぎながらの観察で、全部の写真を撮る事は出来なかったがその一部をご紹介したい。

鴨川市内では蛇紋岩は仏像等の石造物や墓石の築造例が大変に多い。地産地消の石材です。蛇紋岩の消費が何処迄広がっているのか興味を惹かれる。

何時もの様に最初にその所在地。今まで気付かなかったのは入り口付近に車が駐車していた為だと思う。そこに車が無ければ入れるがどうだろうか?他には駐車余地は無さそう。
六地蔵の半分。狭いけれど屋根掛の中に収められている。座像は比較的少ない。蓮華座の部分は蛇紋岩の風化色。鉄分が多いからね!
これは屋外に置かれた例。左は「明和(1765-1772)」、右は「寛政十二(1800)年」
三界萬霊塔。生きとし生けるもの全て、過去現在未来全てを慰霊すると云う
房総半島の嶺岡は「環伊豆蛇紋岩地帯」の陸上で見られる東端。出典は下記。加筆有
神奈川博調査研報(自然)2012.14.25-56
房総半島嶺岡帯の地質及び構造発達史
http://nh.kanagawa-museum.jp/files/data/pdf/res-rep/14/chouken14_025-056_takahashi_s.pdf

房総半島の内房:保田付近から嶺岡の凹地帯を通る蛇紋岩の分布図。出典は下記。加筆有。
地学雑誌 第122巻 第8号 375-395ページ 2016年
巡検案内書 葉山―嶺岡帯トラバース 高橋直樹他
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc/122/8/122_2016.0035/_pdf/-char/ja
案内書には露頭の地図も含まれている
2005年:もう15年前の日本火山の会のOFF会の記録に在る蛇紋岩の画像。蛇紋岩と枕状溶岩が接して露頭がありましたね。
15年前のOFF会の記録:火山の無い千葉で火山に思いを馳せる会
http://kazan-net.jp/chibajunken/chibajunken.html

2020年11月23日月曜日

古刹の板石塔婆と澤田瞳子の時代小説

 この処、澤田さんの時代小説を読み耽っている。と云っても FW とデータの記録作業に追われてとても時間が無いので、電車での移動時間にのみ呼んでいるのだが、菅原道真を扱った「腐れ梅」や平将門を扱う「落花」、それに、痘瘡を扱った「火定」等が特に興味を惹かれて読み進むことが出来た。

古い石材を調べると云っても、その時代の中心は 1600年代から1900年代前半なので道真や将門の時代とは遥かに時代背景は異なるので、僅かに「火定」が痘瘡を扱っているから石宮に良くある「痘瘡神」が僅かに触れる程度だが、北総は平将門に縁のある地域だし、私の苗字の出自は実は九州の大宰府に近くある。先日、利根川流域の古刹を訪ねてつくば付近の泥質片岩を用いた板石塔婆を二十点ほど観察させて頂いた。幸い、その古刹の和尚様の墓碑と言う訳で、手入れも良く、杉木立の暗い撮影条件だったが、年号などもかなり読み取る事が出来た。泥質片岩の変成度に応じて生じる「紅柱石」も多く観察する事が出来た。

中に「寛平九丁巳(897)年五月」等と云う時代のものにも出会えたのでご紹介する。画像はフラッシュを炊くと浅い文字の陰影が飛んで文字が読み取れなくなるので、暗い中での撮影で明るさなどの画像処理を行っているから泥質片岩の色とは少しズレたものも有る。

時代小説は比較的好きな読書分野の一つなのだが、新しい気に入ったた著者を探すのが面倒だったので最近は殆ど読んでいなかった。最近読んだ三冊。
訪ねた古刹の中の GPS トレース。GPSの姿勢を一定にする余裕が無いので線が曲がりくねるがフラッグの位置だけは静止してポイントを取るので誤差は少ない。広い境内墓地にも板石塔婆は現存するが保存状態が悪く地衣類が繁茂しており文字が読み取れない可能性が高いので赤丸で示したこの古刹の管主(和尚)様方の墓地を訪ねた。
歴史が長いので管主様の墓石の数も多い。この一角は貞治四乙巳(1365)年~文政九丙戌(1826)年までの、中興期の始祖から第三十四世までの板石塔婆が安置されている。
古刹の開創はネットに拠れば、寛平二(890)年と在るが、この場所の板石塔婆は前述の通り「貞治四乙巳(1365)年」以降のものが時代順に並んでいる(前画像で左端から手前右へ新しくなる)正面に「法流始祖西吽」。左手に「貞治四乙巳年十二月二十七日」(1365)と刻まれている。多数の梵字は色々と御教示を頂いているのだが、未だに残念ながら読めない。
http://kanpukuji.or.jp/rekishi.html
これがこの日確認した中で最古の板石塔婆。左手に「寛平九丁巳年五月二十一日」(897)とある。平将門の生年は幾つかの説が在るが、生まれていたか、未だかと云う時期。右手の文字は知識不足と目が悪いので読み取れない。但し、これは「没年」を刻んでいるので、造立年では無い。これが造立年だったら「新発見」になる程の時代。
一連の板石塔婆の中で最も「紅柱石」が多く観察された板石。表面の擦過傷の様に見えるものは全て「紅柱石」です。紅柱石の存在はつくば周辺での産地特定に参考となる
紅柱石の分布状態を接写した。スケール無しでゴメンナサイ。この鉱物は泥質片岩の全体にまんべんなく分布する事は少なく、ある特定の層に現れる事が多いので、劈開のいろんな部分を観察していかないと見る事が出来ない事が多い。特に破断面は要観察場所。




中には一石に二世代の碑文が並ぶ事も。第二十三世法印:元禄八乙亥  (1695)年三月、第二十四世法印:元禄十二巳卯(1699)年七月。
塔婆の墓碑銘も読み解くと様々なドラマが感じられる記述も・・・・