2019年12月23日月曜日

若い頃に大型船舶の機関部員になろうと思った事が思いだされたひととき

鉄工所の隙間で、製鉄所や重化学工場の隙間で、大きな湾に鉄鉱石を積んだ大型船や、捕鯨の為のキャッチャーボートや船尾トロールの大型船が出入りし、海底を歩くトンネルが有り湾を渡る大きな吊り橋が有る処に育った一時期、船の中で機械屋になろうと思った時期があった。
旧商船大学の博物館に「舟が育んだ江戸」展を見に行くと、ボランティアの方がまず明治丸の説明をし、船に案内して下さった。この大学の卒業生で、船乗りの生活をリタイアした方々だが、私もひと時舟に憧れた方だし、舶用機械メーカーに在籍して、船の関係のアフターサービスで全国を飛び回った数年も有るので、懐かしく拝見した。案内して下さった方は余談で私より二週間だけ若い方だった事が判った。心地よい余韻に浸ることの出来た一日だった。

本来は灯台船として計画されたが、「御座船」として艤装され。リベット構造だったが、IHIで練習船に改修されたときに溶接構造になった。リベットの跡が所々残っていた。リベット工は憧れの職工だった。

広角レンズを持参しなかったので全景を入れるのが難しかった

蒸気駆動のウインチ。機械課程の最初の課題が手動ウインチの設計だった。溶接の無い頃に、この巨大な鎖をどのように作ったのかと逆にご質問を受けた。それなら知ってる!

駆逐艦に装備されていたプロペラは大正7年(1918)製。蒸気タービン三軸で34ノットも出したプロペラだ

エンジンの教育用模型
こんなのを見ると胸がわくわくして大変!

蒸気タービンの教育用模型と云っても、たぶん中古の実機

練習船に改修されたときに追加された帆柱

2019年12月13日金曜日

藤沢に鎌倉石を探す:12月13日

久し振りに、藤沢に行こうと思い立った。凝灰岩質石材の観察資料が間もなく関東各県だけで1,000件を超すので、これまでに調査がやや手薄な神奈川でもう少し房州から渡った「房州石」や地元の「鎌倉石」の観察例を増やしておきたいと考えた次第。目標は歴史的建築が残る神社の「階段石」、「灯篭」、「石祠」や「社殿の基壇と礎石」。尚、「鎌倉石」は、本来鎌倉の産出の筈だが、実はこの藤沢市や横須賀市の鷹取山でも採掘されていた。鎌倉は帳場の専有面積が小さく、傾斜地ばかりなので生産が需要に追い付かなかったのである。鎌倉市内には殆ど無数と言いたくなるほどの石切り場跡が残っている。
住まいからの距離が遠く、更に冬場は実働時間が陽射しで左右されるので、今日はやっと五か所を巡り、三か所で良い状態で感圧が出来たので、その中の藤沢市手広の熊野神社の例をご紹介。

今日の行動範囲。この付近はバスの便が良いので、バス停二つくらいの距離でも結構待たずに使えたので今日の歩数は 14,000 程度

熊野神社の参道。階段は安山岩。写真のUPはしないが、ここの鳥居は平成21年の建立なのに安山岩が使われている。珍しい。神社の造営は江戸地齋書記の1658年頃(明暦元年)とあるが、これは証拠としては採用できない。

階段を上ると、右手に火袋が失われた灯篭が目に入った。立派な「鎌倉石」製である。文政三(1820)年の造立。

火袋を支える筈の、中台は苔も少なく美しい表面が保たれている。

右手に並ぶ石祠はやや風化が進み、祀られている神の名は読めない。

一番右の石祠はかなり固い鎌倉石らしく、本体前面の両側の丸みが良く残っている。

丸みを帯びた石祠の部分拡大図

拝殿の礎石には玉石が使われていたが、本殿の礎石には鎌倉石の切り石が用いられていた。

礎石の表面の接写画像。

境内の背面は社殿を構える為に彫り込んでいる。この付近の地層は「池子層主部」の泥岩とたまに火山灰層が混じるが、地質図では古付近の鍵層は記載されていない。同じ池子層でも「高取山火砕岩部層」や「神武寺火砕岩泥岩部層」には石材として使える地層が多く含まれている。

2019年12月10日火曜日

山形市山寺の石蔵:山寺石:デイサイト凝灰岩

日本火山の会FBで、「美しき火山岩構造物」というトピックス記事コーナーが始まった。折角なので、凝灰岩質石材の様々な構造物をしてみようと思い立ったので、一部重複するものもあるのだが、そのまま流用させて頂いてご紹介する事にしました。

山寺の駅の近くで見掛けた立派な石蔵。所有者は「大谷石」と云って譲らないのだが、これは地元の山寺石と云われたデイサイト凝灰岩である。





目の前の立谷川の河床で露頭が観察される(右岸上流に河床に下る階段有)。

山形ではこの石材が古くから使われており、山寺の川向うの日枝神社には『正徳六(1716)丙申天五月吉日』の刻銘が残る大きな鳥居が現存する。

法隆寺には遅れるが、山形市内にはさらに古い(天仁二年:1109, 永徳三年:1383等)鳥居が多数現存する。
川辺氏の「山形盆地の神社と鳥居とその損傷状況のデータベース」は、仙台出張時の空き時間を利用して山形を歩いた時に大変にお世話になった貴重なDB。感謝です。
参考:
山寺石,日枝神社の凝灰岩製鳥居:鳥居:正徳六丙申天五月吉日
蟹澤氏による「おくのほそ道」の地質学
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosocabst/2016/0/2016_091/_pdf
日本地質学会>県の石:北海道・東北
http://www.geosociety.jp/name/content0150.html
川辺孝幸氏による「山形盆地の神社と鳥居とその損傷状況のデータベース」
https://www.k-es.org/kawabe/torii/yamagata/shrine/shrine/index.html

2019年12月5日木曜日

そうだ、「佐島石」だ!


先日、雨の日に横浜市金沢区の六浦で観察した総延長が100mを超える立派な「房州石」主体の石塀を観察したのだが、雨でどうにも観察しにくい部分があったので、再度、天気の良い日に裁縫してみた。古い石塀を新しく「房州石」を導入して再仕上げをしているのだが、古い石塀の材質が伊豆軟石のようではあるのだがなんとも腑に落ちないでいた。
20142015年ごろに、三浦半島と房総半島の露頭や建築物を散々歩き回って観察した心算だったが、もう既に記憶が薄れてしまっていたようだ。
 
六浦の邸宅の石塀の一部:最上段から上は明らかに「房州石」なのだが、古い石材の種類が今一つ腑に落ちなかった。砂勝ちの細粒均質の石材があるかと思えば、かなり粗い、スコリアや凝灰質の固まりの部分が有るのに、石工は区別せずに積んでいる。
 
一部を拡大して見た図:細粒と粗粒が一つの切り石の中で混在している。堆積岩だからありうるのだが、細粒と粗粒の境界がはっきりしない。
 
細粒の切り石と粗粒の切り石が混在して積まれている。上のやや黒いのは「房州石」
 
切石の一つの細粒部と粗粒部の境界付近。境目がはっきりしない。
 
そこで思い出したのが三浦半島でも西岸に多い「佐島石」。こんな立派な石蔵が今でも存在する
 
静かな海で堆積したものが静かに(?)隆起したので、様々な種類の堆積物が、ミルフィーユの様に薄く重なっているので、ちょっとした「うねり」や「曲がり」があると、その一枚の層が剥がれてしまうし、底生動物がはい回るとこのように筋状の這い回り跡が残されてしまう。
 
この様に一枚の切り石の中に粗いものから細かいものまで混在するし、石工もそんな事を気にせずに組んでしまうようだ。
 
横須賀市秋谷に現存する石蔵の入り口上部の構造に観察される堆積構造。

2019年11月29日金曜日

雨の日の金沢八景:洲崎で見た房州石の石塀

11月28日の冷たい雨の中、金沢文庫~金沢八景~六浦付近を徘徊してみた。
機械加工目の残る比較的程度の良い、千葉県は鋸山産出の「房州石」の石塀が目立たないように雨に濡れていた










2019年11月15日金曜日

博物館のが観察会が無事終わった!

千葉県立中央博物館の第12回目の「北関東栃木の岩舟石」が24名の参加を頂いて終わりました。私も少しだけお手伝いをさせて頂きましたが、早朝から個人的な調べ物で歩き回っていたこともあり、今日は体がガタガタです。美しいオリビンを含んだ玄武岩の薄片画像を含む32頁の観察会資料も配布されました。
添付画像は、岩船石の切り石の表面に観察される堆積模様と、少し早く解散出来たので、オプショナルツアーとして別の岩質の小さな石切り場跡を観察した際のものです。
栃木市岩舟町静和 星宮神社の沓脱石に観察される角礫凝灰岩の堆積模様。「角礫」ですが、一部に河川礫の円礫が含まれていることがあります。



切り石の二面を斜めに見ると



足尾帯の火山礫中には花崗岩礫が混じる事も多い。ここでは、チャートと黒色の水冷玄武岩(オリビンが認められる)が特徴的に多い。

周辺にはチャートや玄武岩質安山岩を採掘した小丘が在ります。これはそれらの中の一つで、圧密された軽石が黒曜石化しておらづに固結度に欠ける為に、石材としては伸びなかった事が判明している石切り場跡です。

岩片には軽石のレンズが白い状態で観察されます。

採掘跡の崖には、大きな軽石の脱落跡を示す大きな空洞もあります

石切り場の跡は、断崖が残っており、危険なので一人では近づかない事。大切な文化・産業遺産なのでむやみに採取しない事!
さて、資料の整理が終わったら、何時もの凝灰岩質石材の使用例を探し歩くフィールドワークに戻ります。

2019年11月9日土曜日

柴又 帝釈天の基壇と礎石に使われた伊豆軟石

先日、医者の帰りに駅のホームに上がった途端に乗るべき電車の扉が閉じてしまった。急ぎの用もなく、取り敢えずはやって来た反対方向の電車に乗って何時もの金町で下車。
そのまま何となくバスで柴又帝釈天に向かい江戸川の堤防を散策する心算だったのに。建物の古い裏の部分に「伊豆の凝灰岩質石材」があるのを見付けてしまったので、今日はカメラを持って「石材」の写真を撮りに、午後は博物館から柴又に移動してしまった。

正面の一番大きな「帝釈堂」は基礎から建て替えられているので、近代基礎だが、右隣の本堂とこの右奥にある「釈迦堂」は、表は安山岩か白河石で置き換えられているが、側面や背後に回ると伊豆の軟石が使われているのが判る。部分的に大谷石が補修材と思われるが使われているのは、伊豆の軟石の一部に、チョット見、大谷に似た石材があるからだろう。

釈迦堂の礎石は、モルタルで覆われているので一見、コンクリート基礎かとも見えるが、剥がれてみると伊豆半島須崎付近に産出する石灰質生物遺骸に富む石灰質凝灰岩が使われている。両側面。

本堂の渡り廊下より裏側に回ると基壇の石材が装飾用の硬い石から凝灰岩に代わる。但し、笠石は緑色凝灰岩と安山岩が混じっている。

石灰質凝灰岩の特徴の一つがこの様な斜めの堆積模様である。

接写レンズを使って拡大すると、石灰質のものは乳白色で明瞭に見分けられ易い

これは、本堂の裏手と左側側面に多い、伊豆半島で湯ヶ島層群と呼び慣らされてきた「緑色凝灰岩」でもやや硬いもので、様々な色合いの角礫を含んでいる。ほとんどこのように間知石としてや切り石積みに使われる。カビも生えやすいが近寄ってみると判り易い。

大谷石に間違われ易い伊豆の凝灰岩。汚れていないものでは、淡褐色のやや発泡した岩塊を、細粒の緑色凝灰岩が隙間を埋めている。大谷石の「ミソ」とは性状が異なるので、慣れれば直ぐ判別できる様になる。千葉ニュータウン内の百庚申にこの石材が使われている。文字程度は何とかなるが、石仏などの造形には不向き。