2018年5月2日水曜日

Changes on Kīlauea Volcano's East Rift Zone

キラウエア火山で「異変」が起きています。火口壁が崩壊してスパッタリングが激しい状態は今もウエブカメラで確認出来ますが、



新しい割れ目火口が発生したのが航空機からの観測で確認された様です。クラックの長さは 1 km だそうです。

もう少し詳しい事をチェックしたいのですが、現地は天候が悪いらしく余り画像情報は手に入りません。数日前から地殻変動のニュースは入っていましたが、外出が多くチェックを怠っていました。興味がある方は取り敢えず下記を参照下さい
https://volcanoes.usgs.gov/volcanoes/kilauea/multimedia_chronology.html
https://volcanoes.usgs.gov/observatories/hvo/webcam.html?webcam=K2cam

霧降高原:六方沢橋はアカヤシオが満開(5月1日)

霧降高原:六方沢橋はアカヤシオが満開(5月1日)



アカヤシオツツジの名所の六方沢橋傍のPAで、コンビニ弁当の昼食、アカヤシオが満開でした。遠くには、大好きな高原山とその手前に、今市発電所の上部調整池の「栗山ダム」も見えます。やや霞んでいたのが残念ですが、



深く切れ込んだ渓谷に見える溶岩や堆積層も楽しめました


未調査の凝灰岩

 近くに「黒部ダム」が在り、直ぐ傍を「江戸川」が流れている。しかも対岸には「松木平」がある「日陰」と云う場所に、溶結した角礫凝灰岩を用いた石蔵がある。さて、此処までで、場所にピンとくる人は凄い!富山県では無く栃木県の「黒部ダム」で、足尾では無い「松木平」で待てよ、足尾は「松木沢」だったか?地理院地図かGoogleで“36.87069,139.63302”の位置の日光市日陰に知る限りでは確か三棟のこの石材を使った石蔵が在り、その内の一棟がこの建物。以前はバス停が在り、お店も営業していたが現在は無人の様だ。他の二棟は車を止めて観察するのは難しい。



 かなり昔に、上流の川俣ダム周辺に調査(遊び)に行った時に、見付けた溶結凝灰岩だが、何処で採掘されたものか?とうとう判らずじまいだった。
 今日は早朝から日光に出掛けたが、目的地が昨日と振替で休みだったので、中禅寺湖畔で桜を眺め、やたら高いコーヒーとチーズケーキをぱくつきながら、そうだ、久し振りにこれを観に行こうと思った次第。大谷石と同じく木骨貼り石工法で、和釘で落ちない様に止めているので、大谷石の技法を学んだ人達が採掘と施工をやったのだろう。丁寧に集落毎に調べれば他にもあるのだろうが、道路幅に余裕が無くて中々止めながらゆっくり走る事が難しくてそのままになっている。







 「土呂部カルデラ」の「土呂部火砕流堆積物」辺りと見当を付けたが、運べないだろうと云う事で、確かに、下流側の「日向」では見掛けなかったので、日陰の近くに採掘に適した露頭が在ったのだろうと想定してそのままになって居る。
帰途に、五十里湖の海尻で、固定と崖を眺めて来たがそれはまた何時か・・

2018年4月30日月曜日

73歳目前にして、色に迷う!

一昨日に越谷の大相模を歩いた際に、元荒川に近い日枝神社で白い軽石と黒い小岩片が目立つ凝灰岩が神社の玉垣の基礎に使われていた。



似た様なものは大磯から箱根や沼津辺りにもあるし、宮城県の野蒜周辺にもいくらでもあるので、明治四拾年(奉献者芳名額の記載を最初は明治四年と読んだのだが、「四」の下の文字の一部が気になって画像処理を駆使して、剥離した跡の微かな痕跡を見ると「四拾」と読めた)。時代を考えると、いろんな凝灰岩産地の可能性が疑われて少し悩んで、再度、藪蚊対策をして接写で何か判断材料を探そうと今日出掛けてみた。
 この神社の拝殿前の石垣の一部に、実は緑色岩の様な、でも無さそうな石材が有って、今日はこれもじっくりと観察しようと、時々来られる参拝者に遠慮しながら這い蹲って観察してみた。

結果は、がっかりするし、情けない、以前だったら、仲間が緑色岩が在るよ!と声を掛けて来たら、「先に周囲を見回してから喜びなさい!」等と反応していたのだが、神社の銅葺の屋根からの雨だれが旨い具合にその石材に沿って落ちるものだから、緑青が長年に亘って石材を染めて、全体が少し濃い緑色に見えただけで、実際は淡褐色の石灰質に富む凝灰岩だった。しかも、帰宅して画像を確認すると緑色だった等とは恥ずかしくて言えないようなものだった。接写で見付けた石灰質生物遺骸。

 他にも、玉垣の礎石の端に、伊豆の凝灰岩が使われていたので、軽石混りの凝灰岩も伊豆~沼津附近の石材と考えて良さそうな雰囲気だった。左端が明らかに特徴的な伊豆の凝灰岩だった!

本日の撮影枚数202枚。最近、どうも、詰まらぬ事で判断に迷う事が多くなった。

2018年4月29日日曜日

佐野市 唐沢山城跡の伊豆軟石と岩舟石

 まだ、ツツジの花が咲いていても多分余り混雑して居ないだろうと、多寡を食って佐野市の唐沢山に出掛けた、どうやら花の盛りは過ぎ去ってしまっていた様で、代わりに、凄まじい人々が、唐沢山城跡の国史跡指定を願ってのイベントで参集していた。
城跡には唐沢山神社が明治十六年に創建されているのだが、此処に行く時は何時も、ツツジの花の事しか考えていなかったので、此処の、山城の石垣は、此処で採れるチャートをそのままに使っているらしい事は知っていたが、神社も鉄筋コンクリートなので、階段はチャートのでかい岩片が凸凹と出っ張っているのは気付いていたがそれ以外の石材の事は考えても居なかった。
 今回は、余りの人の多さに、隙間を縫って登って行くと、玉垣の柱が少し痩せていて淡い青緑色なのに気付いた。何の事は無い、見慣れた伊豆の凝灰岩が玉垣の石柱に使われていたのだ。



見慣れた模様

今日は接写もまあ、旨く行った!画像の横幅は 30 mm

 イベント用のガイドさん達が屯していたので、神社や石垣の年代を聞いても、「城跡」としてのガイド講習は受けているらしいのだが、神社の事や、改修工事の事は誰もご存じ無い様だった。板書された神社の由緒に、明治十六(1883)年に本殿と拝殿を創建と書かれている。これはかなり微妙な年代である。東武佐野線の前身の安蘇馬車鉄道も、両毛線も開通していない時期。さて、どんな手段で石材を運んだのだろう?と思っていると、神社の神門前の階段の標柱に「明治二十四年十月二十五日造」とある。図の左端。

この時期は両毛線は開通しているが、岩舟石の採石を行っていた「川島健三郎」氏の覚書だと人車鉄道も、駅に石材の積み込み施設も造られていない。馬車で運び上げたのだろうか?トラックの導入は昭和の時代の事だ。
江戸時代には、岩舟石は今の渡良瀬川の東武鉄橋から少し西の「高取」から舟運を使っていた様だから、伊豆の石材も渡良瀬川を遡って、高取から陸路を馬車で来たのか?
或いは、小型の舟に積替えて、秋山川を遡って唐沢山の西側から急な坂道を登って来たのだろうか?今の吉水辺りは、今も瓦屋さんが多く存在するから、秋山川も可能性がありそう!!調べていると、花崗岩の鳥居には明治四十二年十二月とある。階段用の切石は運び込めても、流石に鳥居の石材までは明治も終わり頃までは無理だったようだ。

本丸直下、今の神社の本殿が此の上に有る。建物は神門。玉垣がぐるりと神域を巡っているが、大変な量の伊豆石が運ばれてきたようだ!

岩舟石の中のチャート岩片はかなり大きいし、結構な量が入っている。

神橋の素材は矢張り花崗岩だが、その両側の護岸の積み石は岩舟石が使われている。これは大正十五年に地元高齢者の寄進によると書かれている。昔の高齢者は余裕があったらしい。新しい神社で、輸送方法に制約がある時代のものは、想像の羽根を飛ばせるのが楽しい。