2021年2月4日木曜日

昔のブログ「まくら状溶岩の露頭」

2009年9月に、その頃興味を惹かれていた「まくら状溶岩」の露頭を歩きながら、何処かで情報交換が出来ないかと考えて表題のブログを始めたが、寄る歳波には勝てず露頭歩きを諦めて2015年に更新をストップし、暫くして消去した筈が何故かそのままデータが残り続けていて、編集サイドに入れない状態で居る。

今日、「水中火山岩」の写真集を発行された枕状溶岩に大変造詣が深いHY氏からご連絡を頂いた。面白い事をやって居られる様なので連絡を取ってみようと思い立たれたらしい。歳の差が余りないので親近感を覚えられたとの事で、水中火山岩の画像をCDで下さる事になった。

全く野無償で、このブログと、私はもう一つのブログをやって居るのだが、最近は殆ど投稿していないのだが、そうか、こうしてずっと残ってくれるなら、四月になって少し手が空いたら、もう一つのブログを整理してそのまま、凝灰岩質石材のデータ保存兼資料公開の場にすれば良いと思い出した。自己満足型ブログながらも、続ける事は良い事だな!と思う。まだ今暫らく頑張れる気がする。

 Y氏が目を止めた樫原神宮の手水舎に用いられた枕状溶岩の画像

2015年に更新を停止したブログの顔。私からは編集も何もできないが、まだ生きているようだ。

南海の桃李

 澤田瞳子の著作に「南海の桃李」と云う短編小説が有る。昨日夕方に澤田氏の別の作品を探しに書店に立ち寄ったのだが、見付からず、この小説が納められた「秋萩の散る」と云う文庫本を手に入れた。車中でこれを読むと。吉備真備が唐からの帰途に沖縄から続く二百余りの島々に、島の位置や日本への道のり、島内の水場や、連絡先とその位置等を記した石碑を島々に建てようとする中での物語である。

時代は、僧鑑真が来日する船が出て来るので西暦の754年前後の物語。私が調べている房総半島に現存する石碑類では最古のものが「建長五(1253)年」だから、更に500年ほども遡らなければならない。和銅(711)四年に造立されたとする群馬県高崎市の砂岩を用いた「多胡碑」。「神亀三(726)年」に同じく高崎市に現存する輝石安山岩を用いた「金井沢碑」の時代に近い。果たして、南海の島々に文字を刻んだどんな石材が使われたのか、興味深かったのだが残念ながら石質を思わせる記述は無いままに小説は終わる。

また、作中には「石碑」について、吉備真備に南の島で付けられた地元の若い官吏の言葉に「南海には岩場の無い島が数多ございます。そういった地では、岩は大変貴重なもの。石碑なぞ建てれば、すぐに壊され、錨石にされてしまいましょう」そうだ、房総半島でも板碑が礎石に使われている例が在り、富士塚の山留に使われている事も有る。

もし、大宰府で石材を調達すると緑色片岩あたりだろうか?鹿児島なら安山岩、屋久島の花崗岩は無理だろうな?とか想像の翼は九州の南の空を舞う。

和銅四年(711)に造立された、多胡石(砂岩)を用いた高崎市の「多胡碑」の一部。
側面には多胡石の縞模様が観察される
飛鳥時代の681年に造立された、輝石安山岩を用いた「山上碑」
匝瑳市にある「爪かき地蔵」は爪で引っ掻いた様な細い線で描かれた地蔵尊。旭市の飯岡石に刻まれている。有孔虫も大量に含まれ、バブルウオールの火山ガラスも観察される石灰質泥岩で大きな石材の表側(刻字側)にはスコリアの荷重痕が、裏面には生痕化石が観察される。
大宰府で石碑を二百の島々に合計四百余りを置くとしたら、石材は北九州にも多い緑色片岩だろうか?故郷の北九州市戸畑区の大きな神社境内の石碑の一部。石巻の井内石(稲井石・仙台石)の分布調査をしている時に、この石碑が井内石かもしれないと、旧友の墓参に帰った時に回り道をしてみたら緑色片岩だった。
成田市滑河の古刹で山門の礎石に用いられた飯岡石の板碑。柱脇のスケールは 20 cm
松戸市の金山神社にある富士塚の山留には時代不詳の筑波山と思われる泥質片岩がいくつも使われている。ここが、今の処確認出来ている泥質片岩の流通範囲の西端。

「上野三碑」については下記を参照下さい。

https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/02.html