2011年2月19日土曜日

房州石・古墳(E-3)稲荷森古墳

これはまた、穿孔貝の生痕化石が凄まじいですね。この岩塊も方々に割れ目が入っています。似たようなものですが、もう少し見て頂きましょう。

2011年2月18日金曜日

房州石・古墳(E-2)稲荷森古墳

此処には数個の砂岩・泥岩が見えています。木製のスケールは光ってしまってスケールが読み取れませんが15cmです。手前左側の岩塊は厚みが20cm程度ある様ですが、それでもブロックとしてはそれ程大きなものではありません。

2011年2月17日木曜日

房州石・古墳(E-1)稲荷森古墳

千葉県木更津市にある稲荷森(とうかんもり)古墳の裏手に散在する穿孔貝の生痕化石がある泥岩・砂岩です。余り大きなものはありません。
稲荷森古墳の全体像は、うっかり撮影を忘れていてありません。現在は円墳と思われるその上に稲荷神社の社殿があり、これまでに発掘された事も無いようです。主に社殿の裏側にこの様な穿孔貝の生痕化石のある砂岩~泥岩がかなり散乱しています。割れてしまったのか?それとも最初からこんな大きさだったのか判りませんが、石室の壁を築く程の大きさとしてはやや頼りない雰囲気です。木製のスケールは15cmです。
この場所では、少々煩いと言われるかもしれませんが、穿孔貝の生痕化石の残る砂岩・泥岩の画像を5枚見て頂きます。

2011年2月16日水曜日

房州石・古墳(D-2)立石様

これが、「御神体」の立石様です。白く光っているのはお賽銭の1円硬貨です。本当に狭い範囲が露出しているだけなので、なんとも言えませんが、白色系の砂混じりの泥岩だと思われます。
所々の凹みは、穿孔貝の生痕化石なのか?タフォニーと呼ばれる風化現象なのかこの状態では判りません。
何れにせよ充分に岩と言えるほどに固結していないものなのでしょう。前の画像と共に「岩質」について引用されている「この石は寒気にいたむ石にて、寒中にはここかしこ欠そんじ、」を紹介しました。
房州石や富津磯石の産地である千葉県には海底堆積層が広く分布していますが、その中でも清澄層の泥岩は表面層は表面が凍結して剥れやすくなって居る事が良くあります。夏場はそんな事が無くとも、この冬の時期では表面が薄く剥れるのです。下の画像は千葉県南部の「清和県民の森」の林道渕ヶ沢線沿いに見る事の出来る凝灰岩層です。右側のにほんの少しだけ見える茶系の部分が古い表面で、濃い灰色の部分が表面が剥がれ落ちた新鮮な面です。新鮮な表面にも剥れそうな部分が見えます。雪の上にその破片が落ちていますが薄く剥れているのがお判り頂けると思います。画像では残念ながら判りませんが剥がれ落ちた薄片の内側に氷の薄い膜が見える時があります。

2011年2月15日火曜日

房州石・古墳(D-1)立石様

葛飾区教育委員会が設置している「葛飾区指定史跡 立石」(昭和51年3月)によれば、「この石が古墳の石材の一部であるか、巨石信仰の一種なのか確かな事はまだわかっていません。しかし、この附近にいくつかの古墳が築かれていたことは、発掘によって確認されています。」とあります。
この立石様については、葛飾区郷土と天文の博物館の谷口榮氏の研究に詳しい。平成22年3月には博物館の考古学調査報告集第19集として4次にわたる調査のまとめとして「立石遺跡Ⅳ」も刊行されています。
立石様本体の大きさは「立石様研究ノート」(22)頁に「松の根で二つに割れ、高さも二寸弱であった。現在では大正の頃に図示された小さい方の石は地表面には顔を見せておらず、大きいほうも南北約55cm、東西約27cm、高さもわずかに2~3cm程度頂部を覗かせているにすぎない。」と書かれている。石質については同資料の(29)頁に、「葛西志」の記述として「石質は至極□悪にて、海砂を泥に雑へて、ねり会わせしごとく、鼠色なる和らけき石なり、相傳ふ此石は、寒気にいためるにや、初冬よりここかしこと、次第にかけおち、その形もかはるばかりに損じぬれども、・・・」とあり、柔らかな泥岩である事を伺わせる。次の画像でその御神体をご覧頂く。

2011年2月14日月曜日

房州石・古墳(C-4)素盞雄神社

少し奥の方の岩の上面の凸凹な部分に焦点が合っています。奥の枯葉をスケール代わりにして頂くと、表面の粗さが実感されないでしょうか?
この「瑞光石」の画像はこれで終りです。

2011年2月13日日曜日

房州石・古墳(C-3)素盞雄神社

岩の表面の拡大画像です。注連縄の稲藁が丁度穿孔貝の孔の上に掛かっています。房州石の様な明瞭な堆積構造を示す偽層らしきものは見られません。この部分は前の画像の奉納用の鳥居の傍の部分なので、岩全体の厚みの方向に相当しています。