2019年8月7日水曜日

岩舟山の不思議:中腹で角礫凝灰岩に挟まれた「河床礫」

岩舟山付近の地層の成り立ちについて詳細に論じた論文や報告書の類を探していますが、この地層を含む「日向層」については中々資料を得る事が出来ません。石切り場は、大まかに四段から成り立っているようです。この上から二段目に、急角度で接する「河床礫」と思われる円礫を含む露頭があります。角礫凝灰岩の間に河床礫があるのです。切石の中にも、この「急角度」を示す細粒分の分布するものがあります。

高勝山参道階段(勿論、岩舟石が使われています)東側の一番高い場所の露頭の状況です。

参道階段の中腹に出て、西側石切り場に出てから、一段下がった石切り場です。緑が茂っている辺りの右手(東)が最上段の石切り場になります。スケールに同行者の姿を頂いています。

下の段の北側を眺めた風景です。途中に一段ありますがこの場所からは写せません。この広場は左手にも広がって居て「クリフガーデン」と呼ばれていて、夏祭り等が行われてきました。

最上段から上の岩峰を見上げた画像です。以前は左手にもっと高い岩峰がありましたが残念ながら倒壊してしまいました。

前の三枚の画像を撮影した二段目の中にこの様な露頭が在ります。露頭の前は搬出路で、その反対側に同じ岩相の小露頭があります。地面の所々に、同じ岩相が見えています。露頭の右手に縦筋の入った岩塊がありますが、これはチャートです。

前の画像の左手を拡大して見ました。岩塊の形状を良く観て頂くと、何れも「角礫」では無くて「角が取れた」「円磨された」礫だとお判り頂けると思います。岩舟石は「角礫凝灰岩」なのに、どうした事でしょうね?

露頭と搬出路を挟んで反対側の小露頭の岩塊も、礫岩や、チャートや火山岩が見えますが、勿論、破面も見えますが外形は角が取れています。

中には、砂岩~泥岩に「玉ねぎ状風化」か、「乾裂」の様に見えるものもあります。勿論、細粒だけの部分でも充分に「切石」として建築物の一部を風化も見せずに飾っているものも有ります。この露頭では見付かりませんが両毛線の近くで木の葉化石が産出する様です。

大きな転石ですが、中粒の角礫から構成されている代表的な岩舟石の顔です。

石切り場から南の方を眺めてみました。関東平野は平らですね!夕方の1810時なのにこんなに明るいですね。私達は、常に日没までは露頭に居るのが原則です。この後車で移動し始めたら大粒の雨が降って来ました。

岩舟山の不思議 地元の石材と外来石材の住み分け

伊豆半島南端の下田や上賀茂等から凝灰岩質石材が渡良瀬川を遡って運ばれて来ている事は既に調査済みだが、比較的広い範囲に流通してきた「岩舟石」と伊豆を始めとする
関東山地の石材が何処まで使われているか、用途に拠って住み分けされているかは興味深いので、今回の調査では伊豆産出石材やそれ以外の石材に付いても神社等で調査を行っている。今日ご紹介するのは、岩舟山から南東方向の国道 50 号に接する「赤塚山」山麓の「熊鷹神社」隣の廃寺跡の墓地の石材です。見慣れた粒状組織を持ち、小豆色の火山岩片が特徴の伊豆上賀茂付近に産出する石材が六地蔵と明治時代の墓石に使われていました。

六地蔵は野晒で安置されているが意外と保存状態は良い

六地蔵の建立は「文政十丁亥(1827)六月吉日」とある。

六地蔵の中の「鶏亀地蔵 けいきじぞう」尊

六地蔵の中の「陀羅尼地蔵 だらにじぞう」尊

台石は本体と風化色が異なるが石材としては同じ

無縁仏の中に保存状態の良い大きな墓石が置かれていた。周囲に刻まれた没年は明治初期の年号ばかり。隣の墓石との隙間が小さくてファインダーを覗けないので見当で写してみた。お名前はこの地域に多い名字であった。

隣の墓石にカメラを密着させて、石材の接写画像を撮影したもの。小豆色の火山岩片も観察される。

凝灰岩では無く、宮城県石巻産の「井内石:仙台石・稲井石」石材が墓石に使われていた。珍しい事に、砂泥互層が全体の形状に対して斜めに傾いている事。普通は縦長の板材の側面に並行になる。500点以上の井内石の石碑の建立年代と形状寸法を調査したが、この様に斜めの堆積模様の観察例は数例あるだけ。

恐らく、伊豆の安山岩が使われていると想像するが、「嘉永七年申寅正月吉日」建立銘の十六夜塔が六地蔵尊の傍に、庚申塔と同時期に建立されていた。

岩舟石は墓石にも多数用いられているが、街の辻に建立されている「庚申塔」はほぼ岩舟石でした。