2020年5月23日土曜日

岩石と地層の表情:024;山寺の日枝神社

山寺は「立石寺」で有名な場所ですが、お寺さんがあれば当然神社も在ります。日枝神社の鳥居もこの付近で採取された凝灰岩製ですが、かなり現在の鳥居に近付いています。
鳥居の柱には「正徳六丙申天五月吉日(1716年)と刻まれています。山寺には登らずに仙台に向います。
当地の凝灰岩を用いた正徳六年(1716)年造立の鳥居です。300年を経ても殆ど傷みを見せていません
刻まれた年号はそれほど深くは彫られていないのですが隅まではっきりとした形状を保っています。大谷石とは雲泥の差ですね。鹿沼石とかなり近い雰囲気です。礫の量はこちらの方が多いだろうと思います。
柱の表面を拡大して見ました。木入野は地衣類、黒い部分は恐らく黴です。
鳥居の傍に建てられていた標柱の表面です。画像の横幅は 267mmです。様々な角礫が含まれています。
山寺への参道階段もこの凝灰岩で築かれています。妙なへたりも無くしっかりしています。
山寺の標柱は溶結凝灰岩を期待していたのですが、安山岩の様です。これは新しいものの様です。
敷石を写してみました。単純に同じ石材を敷き詰めたのでは無く異種材を組み合わせているので、どちらかが補修用の後付けの凝灰岩かもしれません。
これは何だったか忘れてしまいましたが、六角柱の表面を撮影したものです。画像は横に寝かせています。
川の畔に妙な大きな岩塊がありました。高い所に横並びで穴が開いているのは、春かな昔に、河床がその穴の辺りまで有ったという事でしょうか?
川の流れに削られたのであればもう少し面が荒れていても良さそうな気がします。堆積時の層理面なのか大きな軽石でもあったのかもしれませんね。

岩石と地層の表情:023;山寺の立谷川河床露頭

山寺の駅は立谷川の左岸に位置し、有名な「立石寺」は右岸ですから参詣するには赤い橋を渡らねばなりません。立谷川は何故かこの橋の両側で巨大な角礫を含む凝灰岩の露頭が河床に広がっています。橋を渡りながら上流側の右岸を良く見ると河床に降りる事が出来そうな階段が見えます。これを利用させて頂きます。
上流側に見える階段の場所です。他にもあるのでしょうが、この場所が一番簡単そうです。足元は滑りやすい場所も在り、凹凸も激しいので足元をしっかりとしておいてください。
こんな大きな礫まであります。勿論、石材を観察する時にこんなに大きなものは有りませんが、表面が広いので斑晶などを観察するには好適です。
同じ岩塊を背景を入れてみました。もっと大きな岩塊が盛り上がっているのが見えます。
礫の比率が随分と大きい様に思います。
緑色凝灰岩でしょうか?これもフィールドノートより大きいですね。
白い礫の正体が判りません。橋の近くなので削ったり、薄めた塩酸を掛けてみる事も出来ません。残念!
凝灰岩の大きな岩塊もいろいろと含まれています
流紋岩ですかね
高畠の資料館で展示されていた泥岩とよく似ています。旧山交高畠駅舎に使われた高畠石にもこの手の礫が含まれていました。
一見、アスファルトかと思いましたが礫岩の様です。アスファルトも枯れて来ると粘りが無いのでこれを拾って来て何という石なのか聞かれる事が良くあります。
手に持ってみると重さが違うので判るのですが、骨材の量が多いと段々比重も上がってきますからね。残念ながら持ち上げる事は出来ません

2020年5月22日金曜日

岩石と地層の表情:022;旧佐藤医院の石塀と石橋等

烏帽子山八幡宮の大鳥居前の参道階段は、急傾斜ですが、拝殿に向って右側は石垣が積まれていますが、左手は石塀が建てられています。現在は住んでおられるのか判りませんが
此処は旧佐藤医院の敷地です。
参道階段脇の石積みと旧佐藤医院の石塀です。柱の部分に多少の傷みが見えますが立派な加工が施されています
階段を下りて回り込むと烏帽子山八幡宮の丘を背景にした石庭が在り石塀の柱の上には擬宝珠もしっかりと形状を保っています。
門の前は現在は暗渠になっていますが、欄干にも細工を施したフラットな石橋が架けられ、門柱のも立派なものです。
参道階段の脇に凝灰岩で造られた「古峰神社」の標柱が明治四十二年の年号と共に建てられています。古峰神社は天狗様で有名な栃木県鹿沼市でしたか本山が在ります。
広大な庭園が美しい場所です。この古峰神社は、烏帽子山八幡宮の裏手から更に背後の山を登った場所に在り、途中で凝灰岩の露頭も観察出来ます。
さて、赤湯を出て更に北上し、この日は山形を通過し山寺に立ち寄ります。途中の山肌にはかなり大きな石切場跡が見えます。山麓のビニールハウスは恐らく葡萄酒の原料を栽培しているハウスだと思われます。
羽前中山の駅に着く数分前に進行方向左手に小さな石造の単アーチ橋がチラリと見えます。連写で捉えた一枚です。「吉田橋」と名付けられたこの橋は明治13年に、烏帽子山八幡宮の大鳥居を造った石工「吉田善之助」に拠って掛けられた石橋で、土木工事で数多くの実績を残した初代山形県令「三島通庸:みちつね」の命に拠るものです
吉田橋と電車の位置関係を示しています。山形方向に向う時は、手前側からは見えないのであっという間に通り過ぎてしまいます。この路線では車窓からもう一ヵ所「堅磐橋」を
見る事が出来ますが、これは撮影に失敗してしまいました。
「堅磐橋」と線路・河川流路の関係を示しています。
山形を過ぎて少し高度を上げて来ると、残念ながら、名前はさっぱり判らないのですが蔵王山塊の眺望が開けてきます。
車窓にこんな切り立った崖が見え始めたら間もなく山寺です

2020年5月21日木曜日

岩石と地層の表情:021;赤湯温泉・烏帽子山八幡宮

公衆浴場といっても、小洒落た場所を見付けたので、まだ日が高いのですが、取敢えずひと汗流して一休み。これから烏帽子山八幡宮の歩道橋として造られた石橋と当時としては最大級の凝灰岩製の鳥居を見に行きます。赤湯も石材の産地の筈ですが石切場情報が得られていないので取敢えず石造物の観察を優先です。
康寿橋は明治時代に築造された参道に架けられた歩道橋です。この後ご紹介する当時としては国内最大規模の鳥居を建てた石工吉田善之助の弟子である川合兄弟によって
築かれたとされています。
烏帽子山八幡宮の大鳥居です。高さが10.75m、柱石は勿論地元産の凝灰岩で一本ものです。鳥居の大きさだけでは無く、この鳥居が急傾斜の傾斜地に建てられている事も
重要なポイントです。勿論、鳥居を建てるのは現在なら「鳶職」が司るのですが、当時は建師(ひきし)と呼ばれていたようですが、これを建てた建師のお名前は
「市川良次」です。石材は神社の裏山から切り出された様です。
念の為、鳥居横の説明版の記載を写しておきました。
鳥居を正面から見上げてみました。参道階段は結構な急傾斜で中々うまい具合の画角になる位置を決めるのに苦労しました。
我々の見慣れた板碑とは少々異なりますが、武蔵型板碑に共通する二本の横線が入っています。岩全体を烏帽子岩と言いますが七面に板碑を掘り込んでいます。板碑も、その造立する地域の石材事情を反映しているので、山形では凝灰岩ので、これが宮城に行くと井内石で板碑が造られているようです。
板碑の説明板の記載です
石垣も凝灰岩で築かれています。高畠の石材屋さんの資材置き場にも四角錘の間知石が山と積まれていましたね。
山形で良く見掛ける標柱です。何故か上に特段の加工を施したように見えない岩塊を載せています。一応階段を登って見ましたが、「明治三十一年三月 社司 新山某」と刻まれているだけでした。しかし、この階段も何のためにあるのでしょうか?階段と反対側に何か刻んであったのでしょう。
燈籠の足元の彫刻です。一部分が欠けていますが結構大胆に深く掘り込んでいます。石材にかなり自信を持つ石工の作なのでしょう

2020年5月20日水曜日

岩石と地層の表情:020;旧採石場跡の瓜割公園の風景

以前から見に行きたいと思っていた瓜割石切場跡を訪ねました。予想通りの大きな石切場跡で、殆どが手掘り時代の名残を留めていますが、極く一部に機械掘りの跡がありました。
道路から離れた北側の入り口から入ろうとすると、廃材を用いたらしい小さな石垣が見えました。中々良い雰囲気です。
入り口を入ると、大きな石切場が途中の隔壁を介して二つに分かれていた事が判ります。
奥の石切場には、四角に切った洞窟状の石切場が見えます。
洞窟の中は機械掘りの痕跡が歴然としています。機械掘りでこのように洞窟状に掘り込むのは、どんな手順で切り込むのかと思ったら、黄色い線で囲んだ部分に手掘りの
採掘痕が残っていました。5段なので、1.2m程度の高さで奥まで切り込んで行き、機械を投入したようです。機械だと一度に手掘りの5段分位の切込深さになっています。恐ろしく効率の良い切り方ですね
一番奥の面には、縦に切り込んだ細いスロット状の切込と、大きな丸鋸を使った切削痕が見えます。丸鋸で、石材の面を均す事も出来る仕組みの様です。
隣の(道路に近い側の)石切場との連絡通路です。人だけでなく、切り出した石材も運べるように幅広に作られています。
少し、崩落が在りますが、連絡通路を出ると直ぐに搬出路らしいものも見えます。
通って来た連絡通路が小さな穴の様に見えるほど壁面は高くそびえています。左上方向に走る複数のクラックやこれに斜交するクラックが結構観察されますね。
連絡通路の傍に、切り出した石材が数本置かれたままになっています。例年、ここで開かれるフェスティバルの際に、石切りの体験が出来るようですが、此処でやって居るのでしょう。
ざっと40~50mは有りそうな手掘りの採掘跡です。地形図から見ると最大で 60mはあるかもしれません。さて、タクシーを呼んで、高畠駅に戻らずに一挙に赤湯迄走って名物の温泉の公衆浴場でひと汗流さないと、この後午後も行動を続けられそうにありません。

2020年5月19日火曜日

岩石と地層の表情:019;古墳の石室石材と郷土資料館の石材

順序が前後しますが、この付近の古墳には高畠石が使われているというので資料館に行く前にちょっと立ち寄ってみました。古墳時代でも後期に属するのでしょうか、石質の石材はかなり加工されたものが使われています。資料館には溶結凝灰岩も展示されています
古墳の羨道入口の石材です。古墳は「安久津2号古墳」と呼ばれており、本来は7基もの古墳が在ったらしいのですが、現在保存されているのは二基だけの様です。
入口の石材を少しアップで写してみました。空洞が多いですね。板材などで、軽石が抜けたのかと思っていましたが、それだけでは無く空洞が多いようです。
古墳から資料館への途中の神社の脇に直径 90cm位の4~5m程度の石材が二本置かれており「ジジババ石」との表札が立てられています。調べてみると鳥居を造ろうとして途中で止めた石材だろうとされているようですが、それでは部材として足りないので辻褄があいません。まあ、これだけの石材を運ぶのも大変でしょうね。
資料館入口のモニュメントです。この様に表面を滑らかに切断していた居ていると観察し易いので助かります。
展示品の切り出し用の道具類です。どこも大体同じような道具が使われていますね。
旧山交高畠駅舎の高畠石に入っていた捕獲岩と同じような石材が「泥岩」として展示されていました。産出地名が「鳩峰硯沢」と書かれているのでこの泥岩も「すずり」に使われる事が多いのでしょう。
展示品の凝灰岩で名称は「海上石:かいしょういし」と在ります。「海上」は地名です。展示品は出来れば切断面を見せて欲しいものです。
「羽山」産の凝灰岩です。下の面が切断されているのでその面を見せてくれると嬉しいのですが残念です。「羽山」は、高畠の街を歩いて石材を観察した際に遠望した石切場ですね。
硬そうな溶結凝灰岩の展示も含まれています。そう云えば資料館の入り口にあった看板代わりの石材がこの石材だったような気がします。出がけに確認しましょう。明るさを補正し過ぎたかもしれませんね。軽石がしっかりと残しています。軽石がガラス化するほど圧密されないままでも十分に濃密なものだったのですね。
資料館入口の文字を彫られた石材のごく一部を接写してみた画像です。関東周辺には余り似たものが無さそうなので「一安心」します。