2011年2月26日土曜日

房州石・古墳(F-5)金鈴塚古墳

これはかなり柔らかい泥岩質の岩塊(泥塊!)です。海岸に転がっていた塊は何でも運んできたと言った雰囲気です。千葉県には、現在の印西市に露頭が保護されている「木下貝層」が在りますが、その木下貝層の貝化石の部分が方解石等で半ば固結した雰囲気のものまで古墳に使われているケースがありますので、この穿孔貝の生痕化石のある泥岩・砂岩を使って古墳を築いたのは、房総半島の富津附近に採石場所を持った、千葉県内でもある特殊な技能集団だったのでしょう。
富津磯石を用いた匠の集団は、石棺に秩父の緑色片岩を用いて石棺と石質を築き、材料の運搬には東京湾側の海運・川運を用い、木下貝層の貝化石を用いた匠の集団は、筑波方面の雲母を含む結晶片岩用いて現在の利根川沿いの「香取の海」の海運と川運を利用したと想像するのは興味深い。尤も、小生は未だその露頭を確認出来ていないのだが、佐倉市に近い千葉市若葉区では、この様な穿孔貝の生痕化石を含む泥質岩が産出するらしい。想像の翼をはためかせるのは楽しい。

2011年2月25日金曜日

房州石・古墳(F-4)金鈴塚古墳

石室内部の側面です。残念ながら苔と黴が生えていて直接岩質を見る事が出来ませんが、間違いなく穿孔貝の生痕化石を持ったものが使われていますし、かなり不定形の岩塊が使われています。中には、割れて転がった泥岩質のものもありましたので、かなり柔らかいものまで使われている事には違いありません。

2011年2月24日木曜日

房州石・古墳(F-3)金鈴塚古墳

この岩塊の生痕化石は随分と穴が浅いので、波浪で薄く削られたのか石組みの際に削られたのか判りませんが、少し特殊なものですね。
スケールは10円硬貨です。

2011年2月23日水曜日

房州石・古墳(F-2)金鈴塚古墳

羨道部分の石組みです。やはり生痕化石の残る砂岩質の岩塊が使われています。中にはかなりスコリア質の岩塊が使われている部分もあります。

2011年2月22日火曜日

房州石・古墳(F-1)金鈴塚古墳

木更津市内の金鈴塚古墳の石室入口です。格子の感覚は大体13cm。内部には石棺が置かれています。古墳からの発掘物は全て「木更津市郷土博物館 金のすず」近くの収蔵庫に納められています。ここの石室は穿孔貝の生痕化石のある泥岩~砂岩が多く使われています。「泥岩」と言っても、稲荷森稲荷で見られたものと同じで、地質学的には少し固結しかけの泥の塊と言った方が正しいようなものです。やはり、「富津磯石」の名称が相応しい雰囲気です。中にはスコリア質の比較的硬いものも混じっています。周辺は宅地に囲まれていて、此処に大型の古墳があったという雰囲気は残っていません。

2011年2月21日月曜日

房州石・古墳(E-5)稲荷森古墳

前の画像でも述べた様に、この岩塊では平らな上面より手前の面に穿孔貝の巣穴があります。どうやら転石になってから穿孔貝が巣食ったものや、転石になる前に穿孔されてしまったものとがある様ですね。これは、或いは砂泥互層の状態で穿孔されていたかもしれません。

2011年2月20日日曜日

房州石・古墳(E-4)稲荷森古墳

いろいろな岩塊を観ていると、意外と平らな面に穿孔貝の生痕化石がある場合と、平らでは内面のどちらかと言うと厚さ方向に生痕化石があるものと、の両方が在る事が判ってきました。それと、この様な生痕化石がある泥岩・砂岩の産地を私は富津から鋸南町の海岸線に求めていましたが、意外と木下層と言う貝化石が濃集している地層の中にもこの様な生痕化石がある泥岩・砂岩が存在する事も判ってきました。縄文海進の時代に海岸線だった場所の「木下層」が堆積した場所の近くにこの様な泥岩・砂岩が存在していたようです。