2011年6月4日土曜日

房州石・古墳(P-5)青掘内裏塚古墳

塚の石組みの様子です。缶チューハイは決して小生が置いたものではありません。昼酒は温泉に漬かった時以外は呑みませんからね!スケール代わりです。恐らく此処から近い磯根岬附近の磯石を使ったものでしょうね。

2011年6月3日金曜日

山本作兵衛と森崎和江 まっくら

山本作兵衛さんの炭鉱絵巻と上野英信さんの事をブログに書いたら、1週間で70人以上の方々が訪問して下さいました。勿論、「世界記憶遺産」と言う単語にヒットしたものですが、1日平均100名の訪問者があるこのブログでは房州石に次いで多い訪問です。
山本作兵衛さんの「筑豊炭鉱絵巻」は小生の蔵書となって居るものよりももっと高価な大判のものも発行されていますが、作兵衛さんの絵を使った森崎和江さんの小型の「まっくら」も今も手放せない書籍です。
正しくは「まっくら 女坑夫からの聞書き 森崎和江著山本作兵衛画」現代思潮社(0095-60122-1909)から1970年に出版されているこの本は森崎和江さんが女鉱夫からの聞書きを纏めたものです。 書籍は、2000年に雹災(この時は書籍の大半を泥だらけにされて失いました。)に遭ったので少し痛んでいますが大事にしています。作兵衛さんの絵が殆どはモノクロですが十数枚有ります。
筑豊の関係の書籍は自分の出自の証明みたいなもので、「みいけ20年資料編」等と言う表題の書籍や石牟礼道子さんや高橋たか子さん吉田優子さん等の書籍と共に書棚数段に今も並んでいます。北九州市の今は学校の校庭になってしまっている、元の零細鉄工所街にある本籍地をとうとう動かさないまま、関東に40数年を過してしまっい、間も無く66歳になろうとする時もこれらの書籍が一対で私の中に同居しています。

房州石・古墳(P-4)青掘内裏塚古墳

これが内裏塚古墳の後円部に作られた記念碑(?)内部に積み上げられた自然石はしっかりモルタルで固められていますが、加工跡が見られない磯石です。古墳を神社や寺院が占拠してその上に社殿を建立している例も多く見られますが、これでは神社風ですね。右手に見られる白い案内看板は、三條塚古墳にも在った「飯野ふる里散歩道6」後円部中央には二基の竪穴式石室が存在した様です。なるほど、この場所にはかって「珠名姫神社」が建立されて居たが、三條塚のある「飯野神社」に合祀されたのだそうです。5月5日の子供の日には御霊祭りを開き「珠名餅」の餅投げがあるとか!

2011年6月2日木曜日

房州石・古墳(P-3)青掘内裏塚古墳


石の中から竹の根が出ているのと、明らかに穿孔貝の穴が見える石が結構あります。これが葺石の一部なのでしょうか?と言う事は石棺が磯石で造られて居る事は間違いないという確信が出てきます。前回、三條塚を歩いた時に立ち寄るべきでした。しかし、三十数箇所のこの附近の古墳も何時か歩きたいですね。帰宅後地図を調べても名前の出ていない「白姫塚古墳」なんて案内看板もありましたね。地質学は足で稼げと言われますが古墳も丹念に自分の足で歩いて確めないと駄目なんですね!本当ですね。
画像の中のスケールは同じものです。全長は165mmです。

2011年6月1日水曜日

房州石・古墳(P-2)青掘内裏塚古墳

県道側(前方部)からこの様な散歩道が後円部に続いています。後円部には石碑が有り此処から散策路は二手に分かれています。目をキョロキョロ挙動不審者風に左右に目を配りながら「葺石」を探しながら歩きますと、木の根が出ている附近に有りましたね磯石が!古墳全体としては前の画像でお判り頂ける様に、雑木が全体を覆っていますし、その落葉が厚く溜まっているので、どのように葺石が有るのかは判りませんが、こうして散歩道(参道)にこうして砂岩質の礫が幾つも見られると言う事は、葺石が置かれていたと考えて良さそうです。これは期待出来そうです!
県道の直ぐ側なのにこの辺は静かで良い場所ですよ。三條塚古墳は落葉が一杯でしたが、此処は散歩の皆さんが毎日歩いている雰囲気ですね。

2011年5月31日火曜日

房州石・古墳(P-1)青掘内裏塚古墳

県道157号線に面した「内裏塚古墳」はこの君津市青掘地域に存在する三十有余の内裏塚古墳群野中で最大最古の古墳らしい。しかも同時に千葉県下最大、南関東では同様に最大、関東では第三位の前方後円墳なのだそうです。
富津市教育委員会の説明板には「築造時期は5世紀中頃で、1906年に発掘され(明治39年)石室上部に石碑が建てられている。石碑の台座に使用されている石は石室天井石の一部と思われる。・・・2007年の墳丘断面の調査で、後円部の約2/3の高さまでは自然砂丘を利用して築造されて居る事が判明した。また、石室は海岸で採取される凝灰質砂岩の自然石(磯石9を乱石積みにして壁面を構築していたと見られるが発掘時の詳細な記録を欠いているため、不明点が多い。」などが記載されていました。
おや!「葺石」の事に触れられていません。「房総の古墳を歩く」100頁には「墳丘の盛土部分には、千葉県では珍しく、丸い葺石がふかれている」と書かれています。

2011年5月30日月曜日

房州石・古墳(G-10)青掘三條塚古墳

右側から雑木の樹幹が大きく左に傾いていますが、下の方で落葉に覆われている部分がこの古墳の環壕(周溝)の部分です。右手にこの古墳へ入るの散歩道の入り口が有り「飯野ふる里散歩道4」と記された案内看板亜g立てられています。
周溝は当初二重に全長193mに亘って掘られていたそうです。この後、訪問した「内裏塚古墳」についでこの地域の古墳郡中第二位のおおきさなのだそうです。
青堀三條塚古墳の画像はこれで一応終了です。明日からは同じ青堀地区のこの附近では最も大きい内裏塚古墳をご案内します。

2011年5月29日日曜日

山本作兵衛と上野英信:世界記憶資産に想う

故山本作兵衛氏の筑豊炭鉱絵巻がユネスコの「世界記憶遺産」に登録されると言う。上の画像は1973年に福岡の「葦書房」から発行された「筑豊炭鉱絵巻」(0071-7301-0135)の中の1枚をスキャンしてみたもの。この書籍が発行された1月の小生の税込みの賃金は手取り60,634円(税込み:81,766円)。これに対してこの絵巻の価格は4,500円だった。現在なら5万円以上に相当するだろうか?出版部数も少なかったので高価だったのだろうと思うが、15年ほど前に九州に帰る機会が数度続けてあり、田川や飯塚・大牟田等の石炭資料館等を巡り、これらの原画の迫力も感じる機会が有った。北九州の零細企業の連なる街に高校卒業まで住んでいたので筑豊は縁の深い場所であった。
世界記憶遺産等と言う制度がある事を、最近のこのニュースで知ったが出来れば山本作兵衛氏の絵巻のみならず、例えば上野英信氏の「写真万葉集・筑豊」(全10巻)を含めて、上野氏の著作集やその他の多くの筑豊の記録を、出来れば何時でも閲覧出来るようにデジタルデータで保管して頂きたいものだと思う。
下の画像は、上野英信氏の「日本陥没期 地底に奪われた死者たち」(未来社:1973年)の口絵写真をスキャンしたものだ。上の画像は「三尺」と言われた薄い炭層を掘削する石炭工夫の姿だ。
下の画像は何を意味しているか?判るだろうか?1957年だと思うが長崎県の北松浦半島に存在した「中興江口炭鉱」で出水が有り29名の犠牲者が出た。その時真っ暗な構内で、カンテラの灯りを頼りに出来たか判らないが、26歳の岩橋さんが「ホゲ」と言う工具に恐らくツルハシかノミで書き残した「井料 西脇 ミヤコ ヒトシ フタリナカヨク タノム」である。人間を人間と思わぬ世界が(今も大して変わらぬが)ある事を、その中で一筋の光を求めて戦った炭鉱や北九州の零細企業・スラムの生活を何処かで記録し続けて欲しいと考えるのは無体だろうか?

房州石・古墳(G-9)青掘三條塚古墳

散歩道から近付いた正面(?)の画像です。前回は暑い時期でしたからこの附近は緑が多くて判らなかったのでしょう。古墳にせよ、岩石・地層の露頭にせよ、歩くのはやはり夏の盛りを外さないと観察は難しい事が多いですね。

天井石の側面の穿孔貝の生痕化石が多い部分を拡大して撮影しました。上にスケール(165mm)があります。この天井石も富津磯石と考えて問題無さそうです。附近の古墳に先駆けて築造されたものなので、周辺の古墳にも同様に富津磯石を石室に使用している例がもっと沢山在る可能性が高い様に思われます。これはもう少し丁寧に調べてみる必要が在るかもしれません。と言っても、こちらはズブの素人。埋蔵文化財センター等で発掘資料をこつこつ読ませて頂くくらいしか手は有りませんね。