2020年7月24日金曜日

岩石と地層の表情:086;伊豆半島の凝灰岩

関東平野広しと言えども凝灰岩の種類と産出量はとても伊豆半島には敵いません。明治十九年に旧地質調査所から発行された「伊豆図幅(20万分の一)地質説明書」(西山正吾)には、
61種類の建築用石材が示された「建築石表」が付属していますが、57種類が硬軟の差はありますが凝灰岩質です。火山地帯なので玄武岩も安山岩も採掘されましたが、中には「伊豆御影」等と花崗岩の様な名前の凝灰岩さえ含まれています。伊豆半島の幾つかの石切場や美しい凝灰岩を用いた建築物を紹介したいと考えています。(尚、このシリーズは99回までの心算でほぼ毎日UPし続けていますが、当面、隔日のUPになります)
沼津に在る「御用邸公園」の石塀です。遠くから見ると安山岩か花崗岩の様に見えますが、同じ沼津の江ノ浦産の「虎石」が使われています。明治の中頃までは良かったのですが
茨城県産花崗岩に押されてしまい明治の末には生産額は明治三十年頃に比べると五分の一程度にまで減ってしまいます。沼津御用邸と葉山御用邸に用いられた事が記録されています。
下田市内の店舗兼住宅の外壁に用いられた砂質凝灰岩に混じって白色の凝灰岩が使われています。前図の「虎石」よりは含まれている岩片がやや多いのが特徴です。
南伊豆町入間漁港に下る坂道の露頭です。国土地理院地図の経緯度10進表示法で“34.629921,138.812204”を引用符は除いて地理院地図かGoogleで検索すると露頭位置が判ります。ストリートマップで露頭も見えます。少し汚れて来ているのが残念です。
石切場ではありませんが、入間漁港から 3 km 程山道を歩くと「千畳敷」と言う石切場跡(34.622713,138.798317)に達します。この石切場から見える「三ツ石岬」の真っ白な凝灰岩の中に聳える貫入岩:ダイクです。残念ながら私は時間が足りずにここまで足を伸ばせていませんが、石廊崎の裏手にある「伊豆ジオパークビジターセンター」(34.609454,138.826766)まで行けば、望遠レンズ付きのカメラか双眼鏡で見えるでしょう。直線距離で 3.5 km 程度です。
下田市内の水族館から更に西側に行った「鍋田浜」の凝灰岩露頭です。鍋田浜には海水浴場がありますがその東側の小さな丘の海岸側が露頭です。残念ながら防波堤が高いので砂浜に降りると戻れないかもしれないので防波堤の上からの撮影で岩質を観察します。
裏手の食堂(売店)脇の道を辿るとこのような板状節理の発達した安山岩の露頭を見ながら防波堤に辿り着きます。
大きな岩塊が多いと採掘の邪魔になるのでこの露頭は生き残ったのでしょう。逆に私たちにとってはどのような岩石が含まれているか、そのサイズは?等とこの付近の特徴を調べるにはこの様な新鮮な露頭は大切な手掛かりです。
凝灰質が主要な部分です。凝灰質は、噴火によって噴出したものがそのまま堆積したのではなく、一端堆積し半ば固結状態になったものが地滑りや、噴火により破砕されて再堆積したものなのでその形状の特徴を押さえておきます。スケールは 15 cm です。
細かな岩片が発泡したスコリアか、火山岩片か、非火山性と判る岩片が無いか、円摩されているか、角ばっているか?等観察するポイントは沢山あります。
ここはいろんな岩片が混ざっています。凝灰質も混じっていて面白そうです。

2020年7月22日水曜日

岩石と地層の表情:085;箱根湯本の白石地蔵の早川凝灰角礫岩

初めてこの場所に来たのは火山の会の箱根OFF会で、駅前は混むからと萬年さんに引き連れられて来たように記憶する。白い凝灰岩の出自を考えている時に思い出して訪ねてみたが、残念ながら石切場跡は立入が出来ないとの事で、この石材が使われている「福住旅館」の石塀を拝見。建物の方は見る事が出来なかったが、歩いている内に旧板橋宿の「内野邸」に辿り着いた。ここは七澤石にも似た「久野石」や「風祭石」らしい石材が使われているのだが、工場の一部には白色の凝灰岩が使われていて「白石地蔵」の石材に良く似ている。
白石地蔵周辺の岩石:砂粒サイズの岩片が混じる。天神山石に対抗出来そうな岩質?
福住旅館の裏手の石塀。クラスティックダイクだろうか?後で画像をご案内するが、大きな岩片より砂礫サイズの集合体がおおいようだ。
ダイク(?)部分の拡大図。画像の横幅は 11 cm です。このくらい大きいと10~15 mm 程度の岩片も多くなっています
砂粒サイズの集まり。目盛りは 1 mm 単位です。石英・長石と黒いものが混ざっています。
石塀の石材のUP です。ピンクの火砕物も含まれています。
前の画像と大体同じような広さの画像なのだが、凝灰質の固まりは大きさの幅が広い
比較的中粒の部分の石材にスケールを写し込んでみました。
板橋宿の内野邸は醤油の醸造業者であったが、その工場なのか蔵なのか判らないが(当日内部を拝見する事は出来なかった)、外から見る事の出来た石壁。
やや岩片が混ざるが似ている
やや大きな凝灰質の固まりが混ざる

2020年7月21日火曜日

岩石と地層の表情:084;大磯の礫混じり白色凝灰岩:中丸石

大磯には地産地消の凝灰岩質石材として「高麗石」・「中丸石」・「かまど石(二宮町)」等が知られているが、この中で白色で火山岩砂礫の含有量に大きなバラつきがある「中丸石」についてご紹介する。
この中丸石は西湘バイパスを挟んで葛川の河口部に石材の採掘跡が現存しているが(海岸側は時に海砂で覆われる)、この付近の露頭ではかなり粗粒で白色の凝灰質の比率が少なく、この岩石を用いた例としては大磯町立図書館のモニュメントに残るだけでしかない。市内で多く観察出来る白色系としては駅近くの切通で観察出来る白色凝灰質が優勢で砂礫サイズのスコリアと岩片が少量含まれる凝灰岩と類似のものが多数を占める。
地理院地図に地理院提供の座標プロットソフトを用いて観察場所を表示したもの。画面左下の赤丸は葛川河口域の石材採掘跡。大磯駅近くの赤丸は大磯町立図書館で、バス停側に旧郡役場の遺構をモニュメントとして保存している中にこの石材が使われている。
大磯駅南の国道が大きく南に曲がった地点の青丸は、私が「中丸石」と考えている「白色凝灰質が優勢で砂礫サイズのスコリアと岩片が少量含まれる凝灰岩」の露頭が観察できる場所。緑丸は一部露出不良の地点を含むが、その岩石と思われる石材が観察可能な地点を示している。この石材の石切場は高麗山の南面と高麗山から西南西側に白岩神社方向に続く山裾を中心に花水川河口部まで広く点在していたと思われる。具体的にはまだ未確認で申し訳ないが石切場横穴墓群が一例として考えられる。白色のやや硬質の岩石は高麗山層群の珪質泥岩・デイサイト質凝灰岩として知られている
石蔵に使われている唯一の例で、石材の中の礫の状態を示したもの。画像の横幅は 30 cm 程度。剥離部分で基質はかなり白い事が判る。
同じ石蔵でやや大きな火山岩礫が含まれている部分の拡大図
白岩神社の石垣に用いられた石材の拡大画像。この神社は往古は現在より東に鎮座されていたらしいが『後ろの山が、海の方から眺めると白く光って見え「白岩山」と呼んでいたので「白岩神社」と称えたと云われている』。これは岩片がやや多い部類。
高麗山下の「高来神社」石垣の一部から風化剥離した岩片がありましたので撮影しました。類似岩石が使われています。
またこの神社の古い階段石は汚れていますが表面形状等から白色系の硬い凝灰岩が使われている様に見えます。残念ながら破面などは無く確認出来ません。これが高麗山層群の珪質泥岩・デイサイト質凝灰岩なのでしょう。
高来神社の東、国道1号線に面して「善福寺」があります。この境内の「龍頭山」は、昔日。花水川の河口域で「三ツ石」と言われる岩礁があり、採掘されて石垣等に使われたという伝承(ボランティアガイド)があると云う。やや東には神奈川では珍しい「切石」を組んだ古墳や「石切場横穴古墳群」等もあります。未確認ですが画像等では比較的白い岩石に見えます。善福寺境内の墓石類の礎石に中丸石と思われる石材と共に、この様な白色の硬そうな凝灰岩が使われています。これも高来神社の階段石と同類だと思われます
これも善福寺内墓地の礎石の一例です。風化の状態から前の画像の石材よりは柔らかそうです。
大磯駅の東側に在る古い石垣の石材です。これも中丸石の仲間と見て良さそうです。
前の画像が使われている石垣のやや広い面積を写しています。左手の石垣は海岸で採取して来たような岩塊を積んだ部分で、穿孔貝の巣穴化石が残る岩塊も多く含まれています。白い石材は大谷石と誤認される事も多いのですがここまで黒色の砂礫が含まれている大谷石はほぼ流通していないと考えています。少量の砂礫が含まれたものは露頭等で確認しています。
切石の表面を近づいて撮影してみました。風化して表に出て来たスコリアなどが目立ちますが、表面を仕上げた状態では美しい石材の部類かと思われます。
大磯町立図書館表のモニュメントの一部です。図書館で二度目に伺った時に、郡役所に使われていたものだとご教示を頂きました。葛川河口域の石切遺構で観察される石材との類似性は非常に高いと考えています。尚、河口域の石材に関して神奈川県博では三浦層群大磯層の凝灰岩としています。
大磯駅南の青丸位置の切通の露頭の部分拡大図です。切通に繋がる「エリザベスサンダーズホーム」の南端の門付近にはこの石材に類似性が高い石材が積まれています。ホームのほかの部分や駅前の学園の塀は自然石風に割り付けた「高麗石」が使われています。
白岩神社石垣の石材とよく似ています。

2020年7月20日月曜日

岩石と地層の表情:083;徳次郎町の嘉登屋に用いられた石材

徳次郎に行けば既に営業はしておられないが、この「嘉登屋」の石材を見ないともったいないので御案内させて頂く。徳次郎交差点から約 300 m 日光街道を北に進むと、格子状のシャッターが閉じられた雑貨屋風の建物があり、その北隣の古い家屋が目的の建物です。
瓦には大谷石の石瓦を使い、北側の戸袋周りには圧密レンズが明瞭に観察される溶結凝灰岩が使われ、北側の建物沿いの路地を入ると、徳次郎石の緻密な石材が使われている。日光街道と平行な裏手の石蔵の石材も御覧になられる様お勧めする。
煙草屋あるいは雑貨屋とされるが、営業はかなり昔に終えたらしく正直な処は良く判らないが、かなりの大店だった事は判る。北側が元からの店舗部分。
北側の建物は二階の屋根は今風の屋根瓦になっているが、一階の屋根は大谷石を使った石瓦だが一般的に見るものより遥かに長い。これ結構重たいのです。
和釘の頭が見えているので本来はあったであろう漆喰は既に剥がれてしまっているのだろう。
店舗左手の戸袋も大谷石だが、圧密構造はそれほど明瞭では無い。しかしながら今風の大谷石とは異なり、緻密な細粒の白色凝灰岩が用いられている。
右手の戸袋の石材は圧密構造が観察しやすい。石塀と異なり戸袋の二つの面が観察出来るので片側は堆積面に平行に切られており圧密でへしゃげて広い面積の岩塊が観察され、直交する面ではレンズ状の構造が観察される
前の画像を道路側から見ると小さなレンズでは無く、帯状に半ば黒曜石化した様な黒い帯状の構造が観察される。
北側の路地を曲がるとまず凝灰岩の石塀があり、図の通用口が見える。この通用口の構造が凝った造りで興味深い。左の方は同じ構造が良く判るが、右手は図中に白の点線を置かせて頂いたがこの面で石材が組み合わされている。上は部品が三箇に分かれているが、斜めから撮影したのではっきりしないが楔状に加工して落ちない様に工夫しているらしい。
背面は二つの石蔵が並んで背面の壁は石塀と兼ねておられる様だ。これも徳次郎石なのだろうが、色調はさまざまだけれど、ミソは全く観察されない。
前の画像の左手の壁。裏手には梅や柿等の木々が植えられていて、全体を見通して石材を映し出す事が出来ない。
石材表面の仕上げの程度には様々なので、あるいは途中で補修・交換されたものもあるのかもしれない。
画像が暗かったので、画像の明るさと明瞭さを自動調整させてみた。裏面なので正面は側面程には上質の石材ではないのかもしれない。

2020年7月19日日曜日

岩石と地層の表情:082;徳次郎石

千葉県内の五輪塔の石材産地が天神山石だと云う説を聞いた時に、まず頭に浮かんだのは、前回の「船生石」と今日ご紹介する「徳次郎石」の事でした。宇都宮市の北側、日光有料道路の最初のICである「徳次郎」には、大谷石とは異なる淡い緑色を帯びた緻密な凝灰岩がを用いた石造物があります。
旧農商務省地質調査所から発行された「栃木県産建築石材試験報文」(清水省吾,1913)には、富屋村の項に「字徳次郎、下横倉及び岩井堂等の数か所は石材を産す、採石場は徳次郎に於いて入江覚治の稼業せるもの稍大にその他は甚だ小なり。徳次郎は数百年前より採石せらるる処なるも、運搬不便の地にあると石質の耐火性ならざるとを持って需要は本村内に止まり従って農閑採石せらるにすぎず・・・」と記載されています。
宇都宮市下ヶ橋町で石造物の調査をしている時に、均質な白い凝灰岩を和釘で木骨構造に取りつけた小さな蔵を見付けました
地質図は「宇都宮」を使用しています。国道119号と日光有料道路とが並走し、これとカーブを描く国道293号線が交差した付近が「徳次郎:とくじら」です。
国道293号線の「西根」付近に黄色く着色した部分は国道の東側に並走する生活道路ですが、ここと、日光有料道路と並走する国道119号に沿って両側に黄色に着色した部分には数多くの、そして様々な大谷石「類」が使われた石造物が有るので観察に好適な場所の一つです。但し、駐車場には恵まれていないので、国道239号線の南側の「畑中」付近の温泉マーク:農業公園か、徳次郎の外食レストランチェーンの閑な時期に一言お断りして車を置かせて頂くしかありません。
地図中央の「男抱山」の少し上に白丸があります。私はまだ此処に行ってないのですが、どうやらこの付近に徳次郎石の石切場跡が在るらしい事が判ってきました。
地図の左手の白く囲った場所は、2010年に博物館の県外岩石観察会で歩いた場所です。この付近も面白い場所です。
下ヶ橋町の調査をしていた時に見付けた農機具倉庫なのでしょうか?道端にポツンと立っていました(国土地理院10進経緯度:36.651495,139.944214)。この集落も大谷石の石造物が多く特に古い時代のものも多く残っている地区です。徳次郎から東に 9 km の地点です。
厚さ8~9cm程度の白い緻密な凝灰岩を内部の木組みに“T”字型の和釘で止めています。本来はこの和釘を幅広の漆喰で隠しているのですが年月が経ち無くなっています。
写真を撮って居ましたら、地元の私より一回り年上の方が声を掛けて下さいましたので、徳次郎石の調査をしている事をお話ししましたら、自宅にもこの石を使った蔵が在るよと仰って招いて下さいました。
先程の農機具倉庫の石材と異なり、淡い緑色を帯びています。直射日光が無いので石材の中の小さな斑が見えますが、「ミソ」はありません。漆喰が剥がれている場所を敢えて写させて頂いています。根室の車石(放射状節理・このすぐ下に枕状溶岩の露頭が在るのだけれど)の絵馬は御愛嬌のスケール代わり。
柱の拡大図です。90度回転した画像です。現行の大谷石とは明らかに異なる凝灰岩です。緑色凝灰岩の緑は、どのような反応がなされるのか知りませんが日光に当たる場所では意外と変化して白い石になってしまいます。これはまだ緑泥石や緑簾石が残っている様です。
徳次郎の交差点からやや南に下がった西側、旧富屋村役場跡の近くに道路に面して、現存する大谷石の石瓦を使った「門」の柱で、側面に「寶暦元辛未(1751)年十一月」の刻銘が有ります。堆積方向と石材の切り出し方向に寄ってやや組織に差がありますがこの画像はやや緻密に見える面です。
同じ柱の直交する隣の面です。堆積構造が現れていてややポーラスに見えますが170年余り前の凝灰岩とは思えません。縦方向に長いクラックが一本入っています。
町内の建物の装飾部分です。塩谷町の船生石程ではありませんが結構緻密です、スケールは 15 cm。
三棟続く石蔵の一部です。右手の蔵は最近の大谷石ですが、奥の石蔵は下ヶ橋町で拝見した石材と同類です。和釘の頭が見えます。尚、瓦も大谷石の石瓦です。これが重いのです!
石材を大写しにしてみました。かなり緻密です。徳次郎石の石切場跡と目される付近の地質は、大谷層の最下部の“Ot”:流紋岩火山礫凝灰岩・凝灰岩及び凝灰角礫岩(凝灰質砂岩および礫岩を伴う)と定義されています。