2020年3月27日金曜日

龍正院 滑河観音の石材

茅葺の仁王門は文亀年間(1501~1504) に再建されたと云われ桃山時代の建築様式として国の重要指定文化財。この門と本堂周りには様々な石材が用いられており、銚子石(砂岩)・飯沼石(有孔虫等を豊富に含む石灰質凝灰岩)・つくば系泥質片岩・伊豆の角礫混じり緑色凝灰岩・伊豆の白浜石灰岩(微小な石灰質生物遺骸を豊富に含む凝灰質石灰岩)等が使われている

参道はほぼ銚子石(砂岩)

山門の門前に宝篋印塔が12期余り並んでいるが6基目以降は銚子砂岩。高さは2mを超える

銚子砂岩を用いた宝篋印塔



細粒の砂岩。全てでは無いだろうが、チャートの入った部分も有る。江戸時代初期には、紀州砥石とともに江戸の職人に使われた

飯沼石の板碑を山門の礎石に用いている。石灰質を帯びてかなり固いのと平らなのが良いらしく、神社の礎石にも使われている。

飯沼石の板碑は苔生しても結構他の石材との違いを見出しやすいが、特にこのスコリアの荷重痕が有れば間違いない。

下総型板碑に用いられるつくば系の泥質片岩も多数礎石に使われている。産地からの輸送距離が近いので、特別高価なものでは無かったのだろうか?

銚子石製の間知石も多い。スケールは20cm

スケールが無いので大した意味は無いが細粒の銚子石を表現できただろうか?

伊豆修善寺の猫越川火傷などに類似岩石の露頭が在るが、結構硬い火山アック礫岩を含む緑色凝灰岩。殆ど間知石や、煉瓦大のサイズで石垣に積まれている

黒いのは、蘚苔類で岩石観察の敵。白浜石灰岩は大量に関東平野に運ばれている。これは、山門前の鉄骨で補強された標柱の礎石に使われていた。

番外
銅製の宝篋印塔。享保3年(1718)江戸神田住人小幡内匠により鋳造されたものなので特にご紹介

成田線:滑河駅周辺で下総型板碑を観察:つくば泥質片岩の中の紅柱石

余りに良い天気過ぎて、岩石の撮影には苦労したけれど、今日は成田線滑河駅周辺の社寺を巡り8か所で、銚子石(砂岩)・飯岡石・伊豆軟石・つくば産泥質片岩等多数を観察する事が出来た。
今回の主眼は下総型板碑の素材で有るつくばの泥質片岩の中でも「紅柱石」変性帯のものが多い事の再確認とデジカメ用画像の取得。なんせ、以前の画像は全てOM-1 のフイルム画像で何とか救えたものだけ。
この日撮影した460枚余りの画像の整理がついていないのだけれど、明日も午前中はせんげん台付近を徘徊して午後は仕事なので、取敢えずその一部をご案内。一枚だけ他の場所の画像を入れたが、全てこの地図の丸を付けた場所の板碑。尚、この素材はお寺の礎石や、敷石にも使われているのを始めてみる事も出来た。伊豆の軟石や安山岩質の石材とも併用されているので興味深い。記録を未整理のデータが大量に溜まってしまった!!

今日のコース丸で囲んだ場所が以下の画像の場所。本来は小高い丘の上に在る筈なのだが、土取場になっていて、板碑や石宮が一ヵ所に整然と、但し隙間が狭くて写真を取るにに苦労する程度の間隔で配列されている。この場所には銚子砂岩や伊豆の軟石も有る

逆光だが板碑や宝篋印塔石宮などの配置状況

板碑の背中を映してみた、これで半分。前側は天気が良すぎて明暗の差が大きくて写真にならない





紅柱石の状況例





比較的大きいもの

「紅柱石」と言う名の通り、結晶部がこの様に観察できるのはまれな事。恐らく、小丘の元の場所から移設した際に、石屋さんが高圧洗浄などをされた際に風化した表面が脱落したのでしょう。