2011年3月11日金曜日

房州石・古墳(I-2)富津市磯根崎:富津磯石の故郷

海岸で見掛けた転石。やや小さいけれど岩質は良く似ている。尤もこれだけ小さいと幾らなんでも古墳には使えそうも無い。こんなのが磯根崎の北側の海岸には転がっている。

2011年3月10日木曜日

房州石・古墳(I-1)富津市磯根崎:富津磯石の故郷

ここは弁天山古墳から歩いていける海岸で「磯根崎」今日からは東京湾に突き出した富津岬から鋸山付近までの海岸線をご案内する。言わば穿孔貝の生痕化石が残る砂岩・泥岩の故郷を訪ねる旅。と言っても、生痕化石が残る泥岩などは千葉県内の現在の陸上部にも方々にある訳で、このブログで古墳の採石場所を極めようなどと考えて居る訳では決してない。
こんな場所で生まれたかもし得ない「富津磯石」の故郷はこんな場所だったかもしれないと言う感傷旅行の記録である。此処は潮が引いた時には岬の突端まで歩いていけるし、健脚なら上総湊までだって砂浜と崖際を歩いていける。但し、潮が満ちてきたら駄目!崖が崩れた部分の波打ち際には沢山の岩片が散らばっている。

2011年3月9日水曜日

房州石・古墳(H-5) 弁天山古墳

柔らかな砂岩から顔を覗かせた泥岩と言うべきか、スランプボールの方が正しい表現だろうか?これと同じような泥岩を含む砂岩が、この古墳からそれ程離れていない場所でも見る事が出来ます。下側の泥岩質のスランプボールの周辺は少し茶褐色に見えるのだが、どうやら鉄分が多いらしい。と言う事は、或いはこの画像の砂岩的固まりは意外と近くの海岸から採集されてきたものかもしれない。
さて、赤羽台古墳の石室石材からいくつかの古墳の穿孔貝の生痕化石の残る石材を見て頂きました。
考古学で言う「房州石」が、産地の地元と目される千葉県では富津磯石の名で呼ばれる、「石」とは言いがたい未固結の「泥岩」や「砂岩」から構成されている事がお判り頂いただけたのでは無いだろうか?
このブログでは、夫々の石材の産地を同定使用などといった野望を持って居る訳ではないが、房州石はやはり鋸山周辺で石材として用いられてきたものだけに摘要して、古墳に使われている穿孔貝の生痕化石のある泥岩・砂岩に対しては「富津磯石」の名で呼ぶべきだと思う事を改めて述べて置きたい。
次回からは、この弁天山古墳からほど近い富津の磯根崎海岸から徐々に鋸山に向って南下しながら、或いはこんな場所から富津磯石を採取したかもしれないと想像を逞しくしながら海岸線の風景をご案内したい。

2011年3月8日火曜日

房州石・古墳(H-4) 弁天山古墳

他の二つに較べるとややみすぼらしい感じが漂う方の天井石、と言っても当時此処まで運んでくるのも大変だったに違いないのだが、その天井石の下になって居た砂岩にも穿孔貝の生痕化石が見られる。最初に築造された古墳はこのヤヤ緑色を帯びた(苔?)が2~3個天井石として使われていた比較的小型のものだったのかもしれないと思う。何処かにそれらしいものが無いのだろうか?画像の左上隅が天井石の一部。

2011年3月7日月曜日

房州石・古墳(H-3) 弁天山古墳

左側に見えるのが前の画像の「古い」天井石。それに較べてこの2枚の天井石の立派な事。これだけの石材の加工を行う事の出来る匠の集団が、最後の1枚をみすぼらしい加工も施されていない海岸から持ってきた石材と一緒に古墳を築造するだろうか?
中央の大きな天井石には、恐らく移動時に吊り下げる為だろうと思われる突き出した部分がある。全体のバランスを取りながら吊り下げ荷重に耐え切れる凸部を作るのは、材料強度を充分に知り尽くしたものでなければ加工出来ない。と思われるのだが・・・
尤も、右側の石材には石材の隅にかすかな突き出しが半端に認められる。或いは4箇所の突き出して石材を吊ろうとして折れてしまったのかも知れない。画像の右側が収蔵庫の正面。古墳の復元されたものはこの収蔵庫の右手にある。

2011年3月6日日曜日

房州石・古墳(H-2) 弁天山古墳

2種類の天井石の画像。少し青い苔が生えたような穿孔貝の生痕化石なのか?波による侵食なのか、海岸から拾ってきたと言わんばかりの岩片と、その奥に在るのは緩やかな円弧を描いた良質のスコリア質砂岩を加工したものが、同じ天井石として使われる事がオカシイと思わないだろうか?
しかも、整形した天井石には縄を掛けて吊り上げる事が出来る様な岩の突き出しがある。
更に、この大きな天井石を支えるのは、穿孔貝の生痕化石が残る柔らかい泥岩・砂岩でしかない。勿論、何の証拠も無い戯言だが、追葬時に天井石が崩れた or 崩れていたので、新しく天井石2枚を新調したのではないだろうか?