2012年7月14日土曜日

大谷石、旧富屋村徳次郎の石造建築 (3)

徳次郎には淡いグリーンの色合いだけではありません。「房州石と伊豆石」のラベルでご案内した修善寺の蔵には、1枚の石材の中に色々な色彩が混ざって居ましたが、此処では石材単位で異なる色合いのものが存在します。(右手の「ラベル」で房州石と伊豆石をチェックしてみて下さい)
徳次郎の交差点からやや北側にあります。此処だけかと思ったら他にもありましたので、色別の石材を少し詳しくご覧頂こうと思って居ます。

2012年7月13日金曜日

大谷石、旧富屋村徳次郎の石造建築 (2)

何故か縦位置の画像が横に寝転んでしまいましたが、富屋村役場跡の記念碑が在る公園の傍の門柱です。宝暦元年の日付が在ります。1751年なのだそうですね。大谷石とするには殆どミソが観られない丈夫そうな門柱です。勿論、屋根瓦は前の画像と同じように大谷石製です。凝灰岩は弱いと言う「常識」を覆す徳次郎の石材です。

2012年7月11日水曜日

大谷石、旧富屋村徳次郎の石造建築 (1)

徳次郎の最初の一枚は屋根瓦である。勿論、凝灰岩製の瓦。
宇都宮の有名な大谷石の教会はその荘厳さから全てが大谷石かと思ったら、表面に張り付けたものだと聞いた。何れ機会を見てこの教会の画像をご案内しようとは思って居るが、貼り合せとは思えない。
それだけの強度が在るから、本来なら水や凍結に弱いと思われがちな凝灰岩をこの様に瓦に採用する事が出来るのだろう。話には聞いていたが本物を観たのは多分この徳次郎での例が初めてだった様な気がする。
大正十年十一月に発行された臨時議院建築局編纂の「本邦産建築石材」第十四節「凝灰岩の特質」の項にも、「(略)有孔質の岩石ナレバ水気ヲ吸収スルコト多クシテ雪霜ニ耐ユルモノ少ナク構造材トシテハ不適ナリ(26頁)」と書かれている程である。

2012年7月9日月曜日

大谷石のようで

大谷石も採掘される範囲が大変に広大な地域に跨っているので、実に多様な顔付をしている。
大谷石に関わると余りに石材としての生産量が大き過ぎて身動きが出来なくなる事は、素人にとっていかんともしがたい分野と言える。しかし、いくら「房州石が命!」と叫んでも、同じ凝灰岩であるこの石を避けてはやはり身動きが出来ない!
大谷石と外観から想定されても、実は顔付が全く異なり、南は茂木付近から北は徳次郎辺りまでいろいろな石質が分布している。これは房州石の探索で、旧松戸宿付近の古建築を目印にして、小さな露地までほぼくまなく歩いていた途中で、見掛けた石材の画像です。上は神社の恐らく江戸時代の狛犬の台座に使われていたもので横幅が350mm。下は寺院の昭和初期の四国巡礼の碑に使われていたもので此方は300mm。

大谷石の蔵等の画像も大分増えて来たので、その中でも日光に近く、日光石とも言われた徳次郎の石材の顔を少し続けてご覧頂こうかと考えて居ます。

街道筋で 粕壁の房州石拡大図

粕壁宿の房州石の画像はどんな石なのか良く判らない画像でしたので、二枚追加します。
この画像なら房州石だと納得して頂けると思います。 
今日はたまたまお休みなので松戸宿の調査漏れ区域を回る予定です。

2012年7月8日日曜日

松戸宿 平潟神社の房州石

松戸は水戸街道(道中)の要所として関所は対岸の金町に存在した様だが、舟運を含めて古くから栄えた街であったらしい。幾つか古い寺院が在り房州石を使われた痕跡が在る。
松戸駅を江戸川方面に出て真っ直ぐ江戸川に向かうと土手に向かって登り坂になる付近の右手にこの平潟神社は在る。初めてこの神社に立ち寄ったのは灯篭や鳥居に芦野石が使われていないか?をチェックに行ったのと、大谷石が目について房州石の存在には気付かなかった。
他の石座と比べて妙に緑に苔むした石材が在った事を思い出し久し振りに立ち寄ってみたら、やはり房州石に間違いない!数が揃って居ないのだが大正時代にこの石垣を整備した時に、かなり有り合せの石材を使ったらしく上の画像でも判る様に大谷石や小松石に混じって岩舟石や房州石も有る!上の画像の真ん中付近スケールの木製150㎜のスケールが在るものを下に上面を拡大して置いてみた。右手の階段の石材もどうやら房州石らしい!