2016年7月2日土曜日

豊島区雑司が谷,伊豆石の石垣 (1)

雑司が谷付近は戦災で古いものは殆ど残っていないだろうと思いながら歩いていて、路地の奥に少し変わった雰囲気の石垣が見えたので確認してみた。

石垣の中の幾つかの切石を画像で帰路出してみると

その一部をトリミングするとこの様に堆積模様が見える

別の石材では

これも部分拡大すると、斜交層理が良く見えてくる。

実はこの石材は、伊豆の下田や雲見等、伊豆の南部で採掘されていた「白色凝灰岩」の風化色が見えていたものです。
使われている石材とその想定される産地:
細粒の成分が多く堆積時の斜交層理が観察される:伊豆下田付近の凝灰岩。
伊豆の沼津方面にやや似た石材が存在する。
資料整理番号:No.131164-01,最新観察時期:2016年7月1日
地理院地図10進座標系:35.718795,139.721020

2016年6月29日水曜日

品川区南品川 諏訪神社の石垣・石塀

神社はその地域によって実は同じ系統の神社が固まって存在する事が多くあります。この神社の石垣には古い部分には伊豆石が、新しい部分には房州石が使われています。とは言え、房州石については、きちんと説明が出来ない「勘」頼りです。最初に伊豆石の部分を紹介します。境内を通り抜け神社の左手から裏の路地に向けるところにこのように低い石垣と石塀が有ります。

地面に近い分部に着目すると一番下に淡緑色の角礫を含む凝灰岩が使われています。
その上に、淡褐色でかなり草臥れてしまった淡褐色の砂岩が見えますがこれは石灰質凝灰質砂礫岩です。やや薄手の石材は、本来は石垣の笠石として置かれたもので、石塀を作る時にそのまま利用されてしまったものと思われます。

三段積まれた石塀の一番下がやや風化していますが、これは地面に近い事が影響したのでしょう。正面から見ると下図の構成です。石塀の部分はかなり新しいと思えるので房州石として考えています。これは別に述べます。

石灰質凝灰質砂礫岩の中に石灰質の塊が出っ張っていましたので接写して観ました。
大きめの有孔虫と思ったのですが残念ながら違った様です。

裏手の路地に面した石垣と石塀はこの様に続いて居ます。

下の方を拡大して観ます。

石灰質凝灰質砂礫岩は数が減って、大部分が淡緑色の角礫凝灰岩です。
神社の創建は弘安年間(1278-1287)年ですが、隣接の天妙国寺は元禄十五(1702)年に四ツ谷塩町から出火した大火で焼失していますので、この後の再建なのだと思われます。
使われている石材とその想定される産地:
斜交層理が発達し、石灰質の生物遺骸を含む石灰質凝灰質砂岩:伊豆下田付近。
資料整理番号:No.131091-03,最新観察時期:2016年6月24日
地理院地図10進座標系:35.611216,139.743535

2016年6月28日火曜日

天祖・諏訪神社の石垣石 (2)

最初は説明し易い石材から始めましょう。この石材は、何故か西側の京急の高架に近い部分に集中しています。

この石材は、このブログの中に数え切れないほどに画像が置かれているので、今更詳しくご紹介する事も無いのではとは思いますが、ブログを見られる方々が全てこのブログを隅から隅まで見るとは限らないので、同じことを何度も記述する事になります。
この石材の中には、コケムシや葉裏に石灰質を貯め込む紅藻類や貝殻の破片など、小さな石灰質の破片が数多く含まれています。

下田市の白浜海岸付近が模式地だったと思いますが浅海性の砂岩礫岩の堆積層です。
一般的な堆積岩よりも、隙間が石灰質で充填されて強く結合されているので、土台石としてかなり広範囲に出回っています。房総半島にも同じような石材がありますが、残念ながら山中に産出するので余り広い範囲までには出回っていません。例外が無い訳ではありませんが、房総半島以外でこの種の石材が在れば、伊豆石と判断して間違いが無いようです。

2016年6月27日月曜日

立会川 天祖・諏訪神社の石垣石 (1)

「房州石」と「三浦半島の凝灰岩質石材」と「伊豆半島の凝灰岩質石材」の違いを明確にするのは、実はかなり困難な作業です。多分、これを明確な基準を持って区別出来る技術屋さんは誰も居ないと思います。
この天祖諏訪神社は、神社の由緒沿革によれば「浜川町と元芝の鎮守の氏神様として仰ぎ親しまれる天祖・諏訪神社は、古くは神明宮、諏訪社と称し、かっては両社とも東京湾に面し、立会川を挟んで並び祀られていました。
天祖神社の創建は、建久年間の大井郷之図や来福寺の記録から西暦1100年から1190年頃に遡るとも思われ、諏訪神社は松平土佐の守の下屋敷かの海岸寄りにあり、江戸時代初期の寛永八年(1631)以前の創建と思われる。両社は昭和40年に合祀され天祖・諏訪神社と称せられるようになった。」と記載されています。

神社の神域は少し周辺より高く恐らくは土盛りされたものと思われますが、周囲を石垣で囲まれています。石垣は、間知石ではなく、凝灰質の切石が積まれたものです。
此の場所の石垣は、房州石も混じっているかもしれないが、伊豆石(軟石)の方が多いのだろうと考えています。石材の量はかなり大量です。
尚、この後に品川付近の幾つかの神社の石材を続けて紹介しますが、これらもほぼ、伊豆石の加納尾性が高いだろうと考えています。
取り敢えず、石垣の規模をざっと御紹介します。石垣のなかでも、正面を除き、南側角付近から南西側と北西側が全て凝灰岩質の切石を積んだ石垣になります。





詳しい画像は次回に

2016年6月26日日曜日

品川宿で海岸の護岸に使われた房州石 (3)

これが房州石なのか、それとも似て非なる三浦半島や伊豆半島の石材なのか?この様な表面状態で確認するのは、実は無理難題です。



しかしながら、どうやら、大谷石では無い事は理解出来ます。芦野石や白河石でも無い。勿論、安山岩等の熔岩系の石材でも無い。土丹系の物でも無い。南側の現在はコンクリートと発泡スチロール製の擁壁(発泡スチロールはいろんな土木用途に使われる様になってきました)となってしまった分部の角の部分は、品川区立品川歴史館のロビーに展示されている「房州石」だと判っている。更に、この画像の右手にはどうやら伊豆の石材が使われている事から、順当にいって房州石の可能性が高いだろう。と判断します。この様な表面状態では画像では少々表現しにくい構成粒子のサイズや性状も加味して足し算引き算をすると、房州石と言っても文句は出ないだろう程度の確率です。三浦半島の可能性だって否定出来ません。


たわしでゴシゴシ表面を洗ってみたいものです!

尚、この路地の更に北の方にも、多分房州石だろうと思われる石材を積んだ護岸が残っています。


こちらの石材はまだ表面状態を確認出来ます。






房州石であることを積極的に否定する材料は無いようです。