2016年12月20日火曜日

我孫子市青山 八幡神社の石造物

利根川を見下ろす事の出来る高台にある無住の神社だが、お隣のお寺さんの存在に稍かすんでいる感が有るが、意外と歴史の在る石造物が存在し、その年代が判るのも嬉しい。
社殿の土台石にやや粗めの緑色凝灰岩が使われている支柱の束石は伊豆の細粒緻密な凝灰岩なので、この土台石も伊豆の可能性が高いと考えた。




燈籠(一対)の一部:火袋が風化破損したので、背後に笠石と共に落下したもの。束石の石材と同類。文化十四(1817)年丁丑の年号。「四」と「丁」は読めないが「丑」の干支から文化十四年と判断。



文面から文久二(1862)年以降に建立されたと考えられる倒壊した石祠の側面。これも細粒の緑色凝灰岩

文久三年の銘がしっかりと残る石祠。伊豆下田の仮称「幼稚園丁場」の石材に酷似する。石灰質凝灰質砂礫岩で堆積時の斜交層理が観察される。

明治十九年の銘が有る凝灰岩質石材を用いた狛犬。背面は風化が見られないが、表は風化している。


石質は不明ながら、記載された年号が元禄六(1693)年癸酉と最も古い石造物。芦野石か安山岩なのか?フレッシュな表面が観察出来ないので不明。芦野石の可能性が高いと思われる。

この神社の境内で、合計三十に点の年号を確認する事が出来た。

使われている石材とその想定される産地:
細粒緻密な緑色(青色)凝灰岩を用いた文化十四(1817)年奉献の燈籠は:伊豆下田から河津附近の産出と考えられる。
古い時代の石祠は芦野石の可能性が高い。
宮城県石巻産の「井内石」製石碑も明治時代を中心に散見される。

資料整理番号:No.122220-01,最新観察時期:2016年12月14日
地理院地図10進座標系:35.881694,140.048545

2016年11月5日土曜日

杉戸町杉戸:渡辺勘左衛門邸の石塀

日光街道の宿場町として元和二(1616)年に開宿された杉戸宿の北側で日光街道に面した、「渡辺勘左衛門邸」は杉戸町の発行した観光パンフレットでは横町の古民家として紹介されています.
その日光街道に面して一部は安全の為かコンクリートで覆われていますが伊豆石の石塀が現存します。伊豆半島の下田市内に石切り場が有るこの凝灰岩は堆積後に様々な地殻変動を被っているのですが、石切り場の壁面で見る時には大体において斜交層理が目立つのですが、石材として切り出す時の集うで様々な模様を見せてくれます。

比較的明るく照らされている部分の壁面はこのような雰囲気です。

幾つか代表的な切石の画像をご案内しましょう。















下田の石切り場ではこのように比較的繊細な白い火山灰の線が美しいものが多いのですが、所々に全く様相が異なる石材が入ります。岩片が入る事も




白色のパミスの偽礫が集合する事も


この石材は、茨城県土浦市や栃木県足利市等、伊豆から遠く離れた地域にも分布します。建設年代が特定出来ないケースが殆どですが、舟運が大きな役割を果たした事は間違いないようです。

使われている石材とその想定される産地:
細粒の白色パミスと細粒左岸が斜交層理を示す石材:伊豆下田付近
資料整理番号:No.114642-10,最新観察時期:2015年10月7日
地理院地図10進座標系:36.032256,139.724566

2016年5月31日と6月1日ににUPした、「No.114642-10 杉戸町下高野 伊豆石の石塀」(ラベル:伊豆石)は内容が重複するので削除した。ラベルは石材名から存在する地域名に変更した。

埼玉県杉戸町 木々子神社傍の石塀

お名前は判らないのだが、木々子神社の東に古い歴史を持つ雰囲気の御屋敷が見える。

このお屋敷の、図で右側の少し奥まった処に、美しい正門の石造りの塀が有る。この石材が実は伊豆下田付近に産出する凝灰岩質石材で、恐らく舟運によって関東各地に運ばれて石塀として使われている。残念ながら天気が良すぎて、石材の色や模様が白飛びしており、更に植生で上手く撮影できなかったがいくつかご紹介しよう。






使われている石材とその想定される産地:
細粒の白色パミスと細粒左岸が斜交層理を示す石材:伊豆下田付近
資料整理番号:No.114642-02,最新観察時期:2015年10月28日
地理院地図10進座標系:36.049181,139.705217

2016年6月2日にUPした、「No.114642-02 杉戸町下高野 伊豆石の石塀」(ラベル:伊豆石)は内容が重複するので削除した。ラベルは石材名から存在する地域名に変更した。

埼玉県杉戸町下高野:木々子神社内浅間塚

「木々子神社」と書いて「このこ」神社と読むらしい。関東平野がまだ広大な海域であった頃に、この付近から陸地となっていた為に平野でありながら「高野」と呼ばれ始めたらしい。「日本武尊」伝説に繋がる言い伝えが残ると、埼玉県神社庁の名鑑に記載されている。
「木々子神社」御本体は、改修されて、異邦人にとっては外観からは特に興味を惹くものも見えないが、境内に建つ浅間塚が面白い。本来は貞治年間(1362-68)に高野城を築いた際の城の鎮守として勧請した社で、現在の場所には昭和40年に合祀されたものらしい。


浅間塚としてはむしろ簡素な造りなのだが、この階段石に伊豆下田付近に産出する石灰質凝灰質砂岩が用いられている。参詣する方々も少ないのか、階段石は傷みも少なく、表面にこのような石灰質の生物遺骸(貝砂・ウニのとげ・石灰藻・コケ虫等)が数多く観察される。

また石材の一部には堆積時の成層構造が現れている。

こんな場所までどのようにして伊豆の凝灰岩を運んで来たのか?と言う興味は意外とこの近くで氷解したがこれは別項でご案内。

浅間塚と言えば、通常は発砲したごつごつした富士山溶岩が付物なのだけれど、ここには佐野市岩船に産出する「岩船石」が観察される。切石の様なきちんとした直方体では無いので、河川の護岸工事等にも多く使われてきた石材が何かの折に紛れ込んだのかもしれないが、江戸時代に河川沿いに発達した醤油屋さんでも、水に強い石材として良く使われたのでここでの由来は判らない。岩船石には特徴的にチャート岩塊が含まれるので判り易い。




石材繋がりで更に境内を見渡すと、浅間塚の石碑は宮城県石巻市の北上川河口の左岸に広がる丘陵地帯に産出する「井内石(稲井石・仙台石)」である。これは石碑表面の立て筋が特徴の一つ。この石材は明治大正から昭和の時代に全国で用いられ、最南の地としては宮崎県日南市でその存在を確認している。白い部分は砂岩、黒い部分は泥岩で、砂泥互層が生物による擾乱で複雑に絡み合い強固な岩石となる。劈開で薄く割れるので石碑に適している。文字が風化で消える事は殆どないので、歴史資料として重要な石碑材料だが、最近は完全に黒御影に押されている。


もう一つ、興味深いものは、「木々子神社」の鳥居の傍に打ち捨てられている花崗岩の鳥居の柱の残骸である。真横から撮影すればその「すっぱり袈裟懸け」風の破断面が判り易かったのだろうが、この足元にはこの上側の柱の残骸が有り、大正十四年の年号が刻まれている。


関東大震災が大正十二年だから、被災しその後に建てられたものと想定されるが、花崗岩がこのように斜めにスパッと割れる事は稀な出来事と思われる。このように斜めに綺麗に割れるのはこの方向に或いはなんらかの弱点が有った可能性も否定は出来ないが、石工はそのような石目は見逃さないであろう。
このような斜め45度に近い角度で起こる「せん断破壊」は、よほど大きな上下動の地震を受けたのではないかと思われる。この後の新しい鳥居は平成25年12月吉日に建てられているので、折れた鳥居はおそらく2011年の「東北地方太平洋沖地震」の際に倒壊したものと思われる。

使われている石材とその想定される産地:
石灰質凝灰質砂礫岩:伊豆下田付近
チャートを特徴的に含む角礫を含む凝灰岩:栃木県佐野市岩船町産の「岩船石」。
資料整理番号:No.114642-01,最新観察時期:2015年10月28日
地理院地図10進座標系:36.048730,139.704477

2016年11月4日金曜日

杉戸町杉戸:新明神社

街中のこじんまりとした神社ですが氏子の皆様は歴史を大切にしておられるようです。
創建は寛永七年ですが寛政七(1795)年に敷石工事を施工。社殿は嘉永四(1851)年債権と伝えられています。

社殿の屋根が欠けてしまいましたが、この神社の神域を示す石積みが興味深い石材を使っています。石垣の積み石は、熱水変質を受けた火山岩礫を含む典型的な緑色凝灰岩で、石切り場は不明ですが、湯ヶ島付近には過少に露頭が多く見受けられます。神社などの石垣石には実によく使われている石材です。また、その石垣の最上段の「笠石」はほぼ石灰質凝灰質砂礫岩です。一部に、細粒で緻密な緑色凝灰岩らしい石材がありますが、確認が少し難しい状態です。
比較的きれいな表面の石材を探すとこのように角礫を含んだ緑色凝灰岩で有る事が判ります。
少し広い範囲で見るとこのような雰囲気です。


正面階段の石材や石垣の一部の笠石にはこのようにの側面を見るとこのように、妙に白いものや側面に縞模様がうっすらと感じられるものが有ります。この白い部分はかなり石灰質が濃い部分で石灰岩と呼んでもおかしくはないのではと思われるものもありますが、貝殻やそのほかの生物遺骸を化石として含んだ石材が観察されます。石灰質と言うだけではなく実は凝灰岩質でもあります。


階段石の二段目の石材に注目頂くと


更にその一部を拡大してみるとこのように小さな白い破片のようなものが点在しているのが見えます。

この石材は通りから境内に入る際の飲食店の軒下にも何故か積み重ねられています。
積み重ねられた石材の側面には堆積時の構造模様がしっかりと観察されます。


使われている石材とその想定される産地:
石灰質凝灰質砂礫岩:伊豆下田付近
角礫を含む緑色凝灰岩:石切り場の所在は不明だが、湯ヶ島付近の歌唱で露頭が観察される。
資料整理番号:No.114642-03,最新観察時期:2015年8月19日
地理院地図10進座標系:36.028672,139.730156

2016年11月1日火曜日

木更津市草敷 八幡神社:旧階段石・高宕石

現在は境内の階段石として使われていないが、高宕石の特徴を示す石材が境内に残存している。



比較的目立つ石灰質生物遺骸が表面で観察される。







尚、少量の伊豆系と思われる細粒緻密な緑色凝灰岩を観察したが十分な観察が出来なかったのでここでは省略した。

使われている石材とその想定される産地:石灰質凝灰質砂礫岩;高宕石(石射太郎山)
資料整理番号:No.122068-01,最新観察時期:2016年2月11日
地理院地図10進座標系:35.331035,140.007657

木更津市大寺 熊野神社 (2/2):露盤・産地不明

熊野神社境内には、かってこの付近に存在したと言われる「大寺廃寺」の塔の五輪下に置く「露盤」と目される大型の石材が存在する。露盤については下記の説明図を参照ください。



露盤は特に保護される事も無く屋外に置かれている。




側面を観察すると幾分層構造が見えるがそれほど明瞭ではない。

石材の表面を接写すると生物遺骸の顔が見えてきた。


尚、この「露盤」石の横には、用途不明の円柱状の石材が置かれている。



尚、この石材は剥離した破片の観察から石灰質であることが判明している。

この石材に関する文化財調査の報告としては「木更津市菅生第二遺跡 大寺浄水場建設に伴う埋蔵文化財試掘調査報告書」,菅生遺跡調査会,1978に記載が有る。

石射太郎山は小糸川水系に、大寺廃寺(熊野神社)は小櫃川水系に近接している。「石製露盤」の想定仕上がり重量は、高宕石の比重を2.722程度(千葉県産建築石材試験報文記載値の高宕石の比重)として、130 x 130x 60 x 2.722 ÷ 1,000 = 2,760kg である。仮に未加工の素材として切り出しと搬出を行ったとすれば、140 x 140x 70 x 2.722 ÷ 1,000 = 3.734kg の重量となる。
明治時代に於いては石切場から最初に人背により平地まで搬出したと言う状況から考えると高宕石を用いた石材としては破格の大型石材と成る。
降ろす事は、斜面を滑り下ろす事が可能であろうが、これほどの大型石材を切り出す事が出来たのか、あるいは平場での移送がどのようになされたのか?興味深い。
既に採掘し尽くされてしまった可能性も否定できないが、採掘、海路での運搬に適したと思われる明鐘岬付近の石材を用いたとしても、「石灰質」である事の説明が付かず、山地については想定することが出来ない。


使われている石材とその想定される産地:石灰質凝灰質砂礫岩;高宕石に類似するが産地は不明資料整理番号:No.122068-03B,最新の観察時期:2016年10月20日
地理院地図10進座標系:35.397764,139.972972

2016年8月13日にUPした「木更津熊野神社の大寺廃寺露盤」は本項と重複するので削除した。

木更津市大寺 熊野神社 (1/2):敷石・高宕石

境内には大寺廃寺の露盤と目される石材が有る事でも有名だが、境内の参道には石灰質凝灰質砂礫岩である高宕石が敷かれている。敷石は鳥居付近から拝殿へ真っ直ぐに延びるものと、途中で分岐して右手の祠の痕跡へと伸びるものtの二筋である。



拝殿右手の祠跡



石材は表面に泥が掛り灰色に汚れているが、ところどころに写真でも判る程度の石灰質生物遺骸が現れているのを観察可能である。



敷石の例を挙げると





階段石の場合は、石切り場からの搬出に問題が有る為、断面形状に特徴があり、産地を確定しやすいが、切石の場合は、石灰質の生物遺骸、堆積構造、色調、等で見分けるしかない。高宕石の需要先は、祠等を調査した先行文献では極めて限定的だが、神社の石段としての用途はそれよりもはるかに広い分布を示すがそれでも君津・木更津市内の分布にほぼ限られている。

使われている石材とその想定される産地:石灰質凝灰質砂礫岩;高宕石(石射太郎山)
資料整理番号:No.122068-03A,最新の観察時期:2016年10月20日
地理院地図10進座標系:35.397764,139.972972