2020年6月13日土曜日

岩石と地層の表情:046;類似性が高い凝灰岩の分布

三浦半島と房総半島を歩き回っていると、細かい事は(学問的な事は)別にして、両方共に「枕状溶岩」があり、「蛇紋岩」があり、それに凝灰岩も類似性が高いものがあり、かと言いながら、全く異なる部分もありで素人には興味深い領域です。今日は、京急の終点から大根畑の中を歩いて行ける「黒崎の鼻」の露頭です。
最初の地図に緑の円で囲んだ場所が三か所あります。房総半島の二ヵ所は呼称こそ「竹岡層」と「黒滝層」ですが、これは図幅地域が異なるために呼称が変わっただけで同じ地層です。三浦半島の「黒崎の鼻」は「初声(はつせ)層」と呼ばれ「三浦層群」に属すとされています。黒滝層(竹岡層)は上総層群です。と言っても時代的には隣同士です。三浦半島にも上總層群は分布していますが、隣同士では無くかなり離れています。最初の地図は古いものから三崎地域(1980),那古(1990),横須賀(1998)そして富津(2005)の四枚の5万分の1地質図をシームレス地質図の上におっ被せたものです。
調査年代も編者も異なる四枚の地質図を一枚の図面上に纏めてみると、専門家の方々からはお叱りを受けるかもしれませんが、酒の肴になりそうなほどに面白いですね。
那古地質図の緑は云わずと知れた「鋸山」の「房州石」が採掘された場所です。上總層群竹岡層と三浦層群のこの中に適度に(?)酸化を示すのであろう桜色の凝灰質塊が含まれた「桜目:おうめ」と言う部分があります。なんでも、これが入っていると無条件に「丈夫で美しい」と値段が高かったそうです。
「黒崎の鼻」周辺地図です。TVの戦隊ものや時にはCMなんかの撮影に使われる事が多いので、三浦大根の畑を歩き始めたら岬の方角を確認して、農道に農作業とは思えないワゴン車が沢山止まって居たら引き返した方が賢明です。何かの撮影の関係者の車なので、そんな時に調査をしていると、オッサンやオニイチャンが近寄って来て、「其処にいると写り込むので・・・」とか、「この後ドチラニ行かれますか?」とか、「どのくらいの時間・・・」とか五月蠅いのです。行きたい場所にも行けない事も有ります。右端の赤い線が京急。左端の緑で囲んだ部分が黒崎の鼻。黄色は参考経路です。潮の具合では大根畑に一端登らなくてはなりませんが、京急側に戻らず地図の南側に見える「三戸」の集落に抜けると佐島石を用いた石蔵を観察する事が出来ます。少ないですがバス便も有るようです。
最初に、房総半島側の事例をご紹介します。ピンク色の凝灰岩が混じる「桜目」は鋸山の何処にでも在る訳では無く、「屏風丁場」の東側にいまでも採掘跡が残っており観察可能です。「屏風丁場」は「地獄覗き」の真下にあります。舞台の左手の切り跡を探して下さい。
この石丁場の所有者である鈴木家の文化財指定の石蔵にもこの桜目が使われていますので、やや多い部分をご紹介します。
富津図幅の緑は鋸山と同じ地層が分布していますが、此処では「黒滝層」と呼ばれています。地質図幅解説書の28頁に「白色軽石を多く含む点で三浦層群の萩生層と差違がある 」或いは「本層は北隣図幅内の「黒滝層」に対比される」湊川の左岸の丘陵部に石切場が分布しており、南に下がるほど標高がゆっくり高くなるのですが、この付近は「黒滝層」です。その中で「居作越丁場」にだけ、この「桜目」が分布していました。今は採掘面に黴が生えているので採掘面を傷めない様に清掃しないので観察は出来ません。居作越丁場の「桜目」は残念ながら現在これを観察する事は出来ませんが、2016年にこの丁場の所有者からお聞きした聞き書きに記録されています。
これと類似性が高い凝灰岩が、三浦層群の分布する「黒崎の鼻」に分布しています。画像の中央の一番高い場所が三浦大根の畑が広がる段丘面です。やや左手の草の無い部分が黒崎の鼻です。緑の線で囲んだ範囲に凝灰岩があります。この左側の崖の面はまるで断層面でもあるかのように、顔付の異なる岩体が顔をだしたりしていますが、普段は雑草などに覆われて中々観察出来ません。大根段丘側の緑で囲んだところは凝灰岩の採掘跡ですがごく小規模です。手前の緑線は真っ黒なスコリアの採掘跡です。
さて、これが問題の地層です。房州石の顔に良く似ています。この画面にも小さなピンクの岩片が見えると思います。少しピンク色の凝灰質も混じっていますが白い部分も多く、先程の三浦層群には白色軽石が存在しない筈ですが結構白いですね
やや大きめのピンクの岩片(凝灰質)の画像です。
この崖にはこのようにバラバラにされた様な地質の固まり等も含まれており、中にはかなり大きなものもあります。
黒崎の鼻の出っ張った崖の一部を撮影したものです。平行に堆積した茶褐色系の地層と、斜め方向のラミナが観察される白い成分が含まれる地層が交互に堆積しています。
佐島石の地層と房総の鋸山の地層に似たものと両方が存在しています。さてこの地層は三浦層群の初声層に属するのか、それとも上總層群の黒滝層相当層に属するのか?どちらなのでしょう?崖の凹凸が激しくて、更に崖の日蔭と日商部の明るさの差が地質観察を妨げているので、これはもう一度写真を撮りに行かなければなりません。往復4時間掛けて出掛けて、また何かの撮影に邪魔されたら最悪です!!

2020年6月12日金曜日

岩石と地層の表情:045;横須賀市佐島の石切跡

横須賀市佐島には広大な敷地の住宅開発が行われているが、その宅地開発地区と電力中央研究所、或いは自衛隊基地に挟まれた処に、佐島石の石丁場として知られている場所が在る。
但し、この場所は、大正時代に発行された石材に関する重要文献の記載とは異なる立地であり、私は現在の「長坂射場」か、その南側の現在の長坂三丁目の住宅地付近に石丁場が存在したと想定している。地表部分の採掘を終え、或いは射場として接収された為に、より近くの現佐島隧道付近の同一地質の場所において採掘を行ったと想定してる。
写真地図は国土地理院のものに白枠で石材採掘跡露頭を、若緑の囲みで、樹木の繁茂の様子から石切場が存在したと想定している場所を示す。
産総研 1/50,000 地質図「横須賀」に追記。若緑の“A”は、初声層の「佐島石採掘跡」。大正初期の「神奈川県産建築石材応用試験報文」の石切場位置とは一致しない。
距離的には若緑“C”が最有力だが、この部分の地質は“Mt”;即ち「森戸層」であり、佐島石の石質と異なる。その点、“B”地点は同一地層であり、森戸層の分布領域を残し削剥されている。尚、地質図左上の水色で囲んだ部分が「立石」で、蛇行する水色が「前田川」であり、この川の「立石凝灰岩部層」の領域に「前田川園地」が設定されており、河床を観察し、酸化により急速に岩石の色が群青色から黒に変わるのを観察出来る。
房総半島では鴨川漁港に類似地質が分布する。前田川の少し下に書いた細い水色の線は「芦名川」小学校の近くの芦名城跡の南側に小規模の石切の跡が残っている。
バスで佐島港から佐島隧道に向かう隧道直前にこの様に石切場跡が見え始める。バスの車高が高いので見えるが、乗用車では見えにくい。
ぎりぎりの拡大画像。残念ながら道路側表面は風雨により採掘の跡は良く見えない。
トンネルを出て振り返ると、トンネルの直情迄石切の跡が見える。トンネルの名称板は今は雑草に絡まれて見えないと思う
トンネルに向って右側の採掘跡。所々に暗色系の層が見える。
立入禁止の柵の傍からトンネル側を見上げて写した画像
壁の表面にはほぼ同じ方向に鶴嘴を振るった加工痕が残る。
大楠小学校の傍に芦名城跡があるがその少し南側に有る石切跡と思われる遺構。大楠小学校のグランド側擁壁(ブラフ積)にも佐島石が使われているが風化が進んでいる。
石切跡は個人の私有地と思われるので、路地を芦名川に下ると川に出た処で、露頭を観察する事が出来る。

2020年6月11日木曜日

岩石と地層の表情:044;横須賀市佐島の天神島

第二海堡で使われている殆どスコリア質で所々に泥岩偽礫が混じる石材を見た時に房総半島と三浦半島で類似石材を探すときに、念の為に天神島に行ってみるか?と考えたのは 天神島の入り口の護岸に真っ黒なスコリアの石材が使われていた事を思い出したからだ。
写真地図は佐島漁港とマリーナに続く天神島と北西側の笠島。笠島には渡れないが地質構造的にはつながっているような岩の配列が見える。白線は真っ黒なスコリア質石材を積んだ護岸。黄色の丸は火山豆石が観察される地層。緑色はスコリア質石材を剥ぎ取った痕跡が観察される場所。
島に渡る橋から右手の護岸を見た状態。島に渡る橋は昭和61年に竣工しているので、護岸はその前に完成していたものと想定されるが、佐島石の中のスコリア質が多い層が採掘されたのか、それとも島にあるスコリア質が採掘されたものか?或いは別の場所から運ばれてきたものか?検討したいと思っていた。
橋の左手の護岸。少し色の薄い部分も在るが石材の長手方向に走る堆積模様が観察されるので、どうやら佐島石の線はすてても良さそうだと考えた。
天神島の北側はやや泥質~凝灰質の地層が僅かに顔を出しているが、火山豆石の露頭が在る付近では丁度その境目らしい。
火山豆石は火山雷が発生するような噴火の際に、降雨により核となる小サイズのスコリア等の周りに火山灰が付着して成長する事で形成される。私の年代だと「チャイナマーブル」と言うお菓子に似ているが、現在は通用しないらしい。この画像ではうまい具合に同心円が見えている。十字線がセンターからずれているのが残念!
こちらの豆石はセンターの「核」が抜け落ちたらしい。豆石は火山の近くにしか分布しないと云われるが、三浦では城ケ島で火山の会のOFF会で一生懸命探したことがありましたね。房総半島では内房の勝山港にも露頭が在りますね。
北側の笠島を見る。標高が低すぎて、此処で採掘したとしても量的に大した事は無い様に思えるので、島にも渡れない事だし検討対象から除外。
緑で囲んだ場所に在る「剥ぎ取り」技法によるスコリア層の採掘跡。崖を作り出すような鋸山の採掘跡と異なり、少量の採掘用途の技法だが、奈良の二上山周辺で発掘される法隆寺等で使われた「二上山石」の採掘も殆どこれと同じ技法だし、鋸山の裾野の方の泥岩の採掘もこんな技法で採っている。但し、第二海堡等の大量に必要な石材の採掘には無理でしかない。右側に矢穴状の跡が残っている。誰か採掘法の実験でもやったのかもしれない。左右・前後の切り方に統一性が無い。黄色いのはGPS。
これも剥ぎ取り方式の採掘跡。周辺の岩石の走向傾斜をみても、とても大量の採掘向きではない。

2020年6月10日水曜日

岩石と地層の表情:043;蛇紋岩と地滑り地質の阿部倉トンネルあたり

房総半島南部の鴨川から保田~明鐘岬付近には蛇紋岩岩体が存在するが、三浦半島にもその延長の様に蛇紋岩岩体が存在する。房総の嶺岡は地滑り地帯で有名でその傍に「鴨川青年の家」が枕状溶岩の上に立地している。今日は「横須賀地域の地質図」にも記された有名な池上の蛇紋岩体の下を通した「久里浜田浦線阿部倉トンネル」周辺の地滑り地帯の「地滑り抑制工」のご紹介。地理院地図の地形図に追記させて頂いたが画面中央の赤線が「久里浜田浦線」で鎖線部分が「阿部倉トンネル」水色で囲んだ部分に「地滑り抑制工」が施されている。
画面中央付近の標高98mの緑で囲んだ部分が「5万分の1 横須賀」の27頁に掲載された蛇紋岩岩体の露頭のある場所。小さな“x”印は、私が此処の地主の爺様と揉めてパトカーを呼んだ場所。衣笠駅傍の緑の囲みも蛇紋岩の露頭が在る場所。2007年に火山の会OFF会で訪ねた場所。赤い線が南に延びた最後の方に赤丸があるのが道路下に在る天然記念物「三浦枕状溶岩」の場所。
二枚目の画像は前図の一部を拡大した写真地図。道路を股ぐ線が沢山見えると思うが、これからご紹介する「地滑り抑制工」の存在する場所。
三枚目はこの付近の地質図。“Sp”が蛇紋岩。“B”は玄武岩。赤で囲んだのが「三浦枕状溶岩」今は場所も判り難くなったし、河床に入れなくなったので、最初はこれから始める心算だったが予定変更。
南側の短いトンネルの上で何故か蛇紋岩岩塊がゴロゴロしていた。左手の水色は鉄柵のラス。
工事中の「抑制工」の「深礎杭」の上部。確かこの波板の直径はΦ2.3 m だったと思う。巨大柱だけでは抑えきれないのでコンクリートの梁を置いて突っ張っている。
片側に山が無いので、片側だけで支えなければならない時はこんなに巨大な支柱を置く必要がある。と言っても大きさの実感が湧かないと思うので、次の画像を
横を走り抜けるトラックのサイズとコンクリートの柱の大きさを比較してみて下さい。
北側の丘が高い場所では梁が二段に組まれている。この下を道路が走っている。その画像が次に
内部の状態。画像は省いたが、この日は小雨が降っていて、側壁に開けられた水抜き穴から、濁った粘土質の地下水が流れ出していた。まずいじゃん!
高さ 1.5 m 位の小判型の岩石。房総半島の嶺岡には「馬蹄石」と言うものが有って、その巨大なものは2 m を越えるが、同じ蛇紋岩地帯に同じような岩石がある事に
房総と三浦は繋がっているという言葉が思い出される。この石は工事が終わったら近くに小さな公園を造るので其処に置く予定だと聞いたが、残念ながら完成後に周囲を探したが見付ける事が出来なかった。残念!
黄色で囲んだのは濁水タンクのフランジで直径175mm位だと思う。おやおや、フランジの規格寸法も忘れてしまった。

岩石と地層の表情:042; 佐島石の擁壁・石塀・石蔵のお店


最初の地図は昨日と同じ。道路は国道134号線。北側の緑のマークが県立立石駐車場のある交差点「立石」。バス停から北東側の「立石不動院・瀧不動」に向かう細い道の角の個人宅の石塀に佐島石が使われている。南に下りながらゆっくりと坂を上っていくと秋谷駐在所の向かいの駐車スペースだろうか?その擁壁が同様に佐島石で所謂「ブラフ積み」に組まれている。更に南下し、大きなマンションが見えてくる辺りに「釣具屋」さんがあり、その向かいの急階段を下ると佐島石の擁壁。国道に戻り、マンションに近付くと蕎麦屋が見える。
この蕎麦屋は、玄関廻りこそ大谷石で補修されているが佐島石を使った石蔵を店舗として使って居られる。
この近くに前田川が流れており、川沿いに上流に進むとやがて河床を歩ける「前田川園地」があります。河床を進むと黒い岩石が河床に現れます。実は断面は深い群青色なのですが、持ち帰ると真っ黒になってしまいます。酸素に当てなければ良いと思って水に漬けた状態で博物館に運びましたが、水中の酸素と結合してやはり黒くなりました。房総半島の鴨川に同じ地質があります。

「立石」バス停前の「不動尊」に向う角の個人宅の石塀には佐島石が使われている。石塀は更に右手に続く。
石塀に使われた佐島石の表面拡大例。右端のスケールは 17 cm。正直言って生痕化石が無い佐島石は美観系の石材とは言えない
石材の中の白いものは「石灰藻」の破片。これが全体の強度を高めている事がある。といっても、特別珍しい事では無く、立石辺りの磯に行けばいくらでも観察出来る類です。
石屋がやってはいけない代表的な失敗例。細粒に見えても花崗岩に細かな文字を彫ってはいけない。昭和四年に不動尊関係の落成記念碑として掘られたが既に文字が読めない。
佐島石の擁壁の例。結構な段数を積み上げているその一部を写している。
駐在所向かいの擁壁に、佐島石が「ブラフ積」で組まれている。スケールは同じく 17 cm 。切石二本を壁面に平行に積むと一本を木口で積むことにより、全体の強度を上げている。
横浜辺りでは「ブラフ積み」は由緒は不詳だが「房州石のお家芸」の様な紹介の仕方をしている事がある。でも、「ブラフ積み」の分布図等が有って、我々には非常に嬉しい事なのです。参考用に「山手地区のブラフ積擁壁」図のサイトアドレス。凝灰岩質石材の主要文献備忘録をエクセルで造ったので簡単に探し出せるのが嬉しい。
https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/toshiseibi/toshin/kannaikangai/yamate/yamate.files/0003_20180928.pdf
釣具屋の向かい(海岸側)への階段を下った路地の佐島石の石組。もっと広い面積の石積みも在るが変わり積みの部分をご案内
大型マンション前の現蕎麦屋の横の石組
和釘の傍に淡い生痕化石が観察される。もっとはっきりしたものを後日ご紹介したい。

2020年6月8日月曜日

岩石と地層の表情:041; 美しかった佐島石の石蔵が消滅

三浦半島には古くから池子石や金田石、佐島石が産出し半島南部では石垣や石蔵に数多く用いられていたがいたが、鷹取石等の開発に押されて消滅に至っている。横須賀市秋谷に二棟の佐島石を用いた石蔵があったのだが、その内の佐島石としての美しさでは一二を競うと思われた石蔵が消滅してしまっている。一棟は一部に大谷石を組み込んで補修されながらも現在は蕎麦屋として現存している。今日はその消滅した石蔵の壁面をご紹介し、次回は近くの横須賀警察署秋谷駐在所向かいのブラフ積みの石垣や、釣具店の向かいの路地の先に在る石垣石や坂を下ったバス停傍の石塀を御案内します。
地図は三浦半島の南部西岸の秋谷地区、前田川園地や立岩に近い位置でバス停で二区間の距離に相当する。道路は国道134号線。北側の緑のマークが県立立石駐車場のある交差点「立石」。バス停から北東側の「立石不動院・瀧不動」に向かう細い道の角の個人宅の石塀に佐島石が使われている。南に下りながらゆっくりと坂を上っていくと秋谷駐在所の向かいの駐車スペースだろうか?その擁壁が同様に佐島石で所謂「ブラフ積み」に組まれている。
更に南下し、大きなマンションが見えてくる辺りに「釣具屋」さんがあり、その向かいの急階段を下ると佐島石の擁壁。国道に戻り、マンションに近付くと蕎麦屋が見える。
この蕎麦屋は、玄関廻りこそ大谷石で補修されているが佐島石を使った石蔵を店舗として使って居られる。私がこの付近を良く歩いていた頃は自然食レストランだったので、残念ながら入った事は無い。
今は無い石蔵の全景。道路側は灰色のモルタルで補修されていたので、坂を下ってくるとほぼ気付かずに通り過ぎてしまう状態だった。足元付近とかに多少の傷みが見られたが比較的状態の良い石蔵であったので残念でならない。
入口上の石組。強度を持たせる為に楔型形状で、丁度眼鏡橋のアーチを組む手法を用いて石組みされている。開口部の荷重を受けるのに他種石材を用いずに同一石材で組み上げる手法だけでは無く、やや茶褐色の鉄錆色の筋目模様を表にすることで良いアクセントになっている。
楔型の部分の拡大図。
壁面の石材の模様。静かな浅い海に堆積した地層らしく、褶曲等は見た事が無いた。多少の凹凸のある堆積で表面を均すとその凹凸がスコリアや泥質の斑となって現れる。
スコリアの分布を見ると、何らかの擾乱を受けた雰囲気は見受けられる。普段の石材表面はほとんど底生生物の這い回った生痕化石がアクセントになっている。
拡大して見ていくと、やはり少しは傷んでいるのが判る。
佐島石の石蔵は三浦市役所の近くや、三崎口からほど近い「三戸」付近にはまだまだ美しいものが現存しているが、長く残って欲しい石材です。