2020年6月27日土曜日

岩石と地層の表情:060;観音崎:② 白浜石灰岩

観音崎砲台に大量に用いられた「白浜石灰岩」について少し説明をさせて頂く。私が初めて「白浜石灰岩」と言う単語を知ったのは「地質学雑誌」に掲載された「伊豆半島南部下田付近の地質の再検討」松本 etal,1985を閲覧した時だったが、この時は論文中の Fig.7 に示された枕状溶岩の画像とスケッチが「偽枕状溶岩」だと考えていたので(今も変わらないが)、余り重要な言葉としては私の中に入って居なかった。2013年に博物館の県外岩石観察会が伊豆半島を観察地として選定し、数度にわたる事前調査を行った時に久し振りにこの文献を思い出した次第。その後、第二海堡の石材調査の折に、観音崎砲台でこの論文関係者にお会いしてご指導を頂く事になる等とは当時は考えても居なかった。
この石材の弱風化した表面の観察事例画像。堆積時の斜層理が石灰質の分布差を反映しているので、側面で観察される層理は上の面までそのまま現れる事になり、表面にその濃淡が観察される事が在ります。尚、神社の本殿亀腹に用いる時は、耐候性を高める為に漆喰か砥の粉の様なものを塗り込んでいる事があり、この風化面が現れずに観察ミスをしてしまう事が在る。やや風化した場合には前回の様な表面を示す事になる。
風化がもう少し進むと、石灰質の化石部分がこの様に風化に耐えて凸部を形成し、表面が白く輝くので発見し易くなる。苔が生えた場合もこの石灰質部分には生えないので、緑の中に白い部分が点在し判り易い。但し、花崗岩が汚れると滑り止めの小さな凹凸が白く光り間違え易くなる。
さいたま市岩槻区の愛宕神社で、本殿亀腹の一部が風化で剥がれていた。丁度賽銭箱の盗難防止作を施しに来ていた当時の町会防犯部長にお願いして剥離・脱落した岩片を頂戴し平らな面を研磨して撮影した画像。白い部分は石灰質の藻類やフジツボその他の微小化石。それ以外は火山岩片が多い。斜層理を示すので、化石類と火山岩片(砂礫)の比重差でラミナを形成する関係で硬軟の差が激しくなる。
標本を更に約 10 mm 厚みで切断し、表面を#1,000程度の研磨粉を用いて平滑に磨き実体顕微鏡と小型デジカメを用いてコリメート撮影を行った画像です。画像の横幅は 4 mm 程度。真っ白な部分は完全な石灰質。半透明の部分は軟骨組織の様なものかと考えている。白い板状のものに囲まれた内部の円形のものは有孔虫に似た組織を示している。
実体顕微鏡観察コリメート撮影例 ②
実体顕微鏡観察コリメート撮影例 ③ 白い丸いのは何だろう?その下は火砕物
白浜石灰岩の使用例:市原市原木の日枝神社階段石。地盤の粘土質が雨水で削られているが、階段石はかなり状態良く現存している。建設年代不詳。神社の由緒も不詳。
階段石の外形寸法: 80cm x 28 cm x 11 cm から、伊豆の石灰質石材五ヵ所( 2.570~2.708 )の平均値:2.645 から一個当たり 65 kg , 二列140段では約18トンの石材を何時、どのように運んだのだろうか?
同じ場所の、一列だけが残っている部分では側板も失われているが石材は殆どがしっかりしている。
下田市内での観察例。高さ 1メートルは有りそうな、餅つきの石臼の様な形状だが、餅つきには無理だと思うので、横に小さな穴が有るので植木鉢か?
幸手市中四丁目の雷電神社拝殿と本殿の共通の基壇部分。四隅の安山岩質石材以外は全てこの石材が使われている。、本殿は天保十五(1844)年と安政三(1856)年に再建されているので何れにせよこれも古い。
これまでに私が観察する事の出来た白浜石灰岩が使われている場所を国土地理院の白地図にプロットさせたもの。約280ヵ所(調査報告は1286ヵ所作成済)。これに入りきれないものとしては、北は佐野市星宮神社。南は横須賀市のこの観音崎砲台と直ぐ傍の資料館の海岸。東西は図中に収めた。埼玉県に多く見えるのは、この石材が石碑や石造物の地中の「礎石」に使われる事が多いのだが、たまたまその礎石部分が見えてしまう事が多いからと言える。
尚、これだけ「在る」のではなく「これだけしか調べが付いていない」ので勘違いされない様にお願いします。まだまだ私が歩いていない空白の領域は広い。

2020年6月26日金曜日

岩石と地層の表情:059;観音崎:① 砲台に使われた白浜石灰岩

明治時代に東京湾湾口に築かれた砲台の中には、何故か伊豆の凝灰岩を使って築いたものがあります。この観音崎の「海上交通センターと観音崎灯台の傍に、二か所の砲台跡が現在も残されています。この砲台には、その経緯は不明ですが、伊豆の下田付近に産出する「白浜石灰岩類」の切り石が採用されています。或いは塩分を含む海風に強いからと思われたのかしれませんが、他の砲台では同じ石材は観察されない様に思います。
ここでは、「白浜石灰岩」が砲台のどのような場所に使われているかをご紹介します。と言っても、私は「戦争遺跡」については詳しく無いので、画像でご覧頂くだけです。尚、この白浜石灰岩類については、第二海堡の使用石材を調べる過程で、この「岩石」の下田付近の「白浜石灰岩類」の産状に詳しい方に、この現場で現物を見ながらご検討と御指導を頂いています。次回には、この岩石と石材について少し蘊蓄を傾けさせて頂く心算です。
尚、私は凝灰岩質の岩石を「石材」として用いる例を調査しているのでこれを無理やり調査範囲に含める為に「石灰質凝灰岩」と観察事例集に記載しています。
海上交通センターの直ぐ傍にこの様な砲台が並んでいます。本来は海上交通センターの部分も砲台だったのですがその部分は破壊されています。階段と緑の苔やシダ類が生えている部分を除くと比較的白い石材が使われている事がお判り頂けると思います。赤車線の部分には花崗岩が使われています。
この灰色の壁も実は白浜石灰岩です。黴や苔が付き易いのが難点ですね。切石の表面には斜層理が観察されます。
この窪みは弾薬庫から砲弾を搬入した際に仮置きするスペースだと聞いた記憶はありますが、本当かどうかは判りません。凹みの奥の壁は別にして白っぽい石材はみな同じです。
弾薬庫なのでしょうか?左側はレンガ積みで造られているのが判りますが、外側のみこの石灰質の石材が使われています。左半分は崩壊したのでしょう。
石材の表面が偶々、風化に拠る剥離で比較的綺麗な面が現れていました。斜層理が観察されます。基本的に「斜交」層理ではありません。
笠石にも同様な斜層理が観察されます。白い部分は石灰質が多く硬い様です。
広い通路の側壁もこの白浜凝灰岩が使われています。これも斜層理が観察されます。
隣の砲台との連絡通路はレンガ造りですが、腰部分はこの石材が組まれています。
腰壁を拡大して見ました。斜層理が観察されます。
ややフレッシュな面が見えましたので、スケールを置いて撮影してみました。白い物質の間に砂~礫サイズの岩片が含まれています。

2020年6月25日木曜日

岩石と地層の表情:058;猿島の房州石

第二海堡の石材調査を行っている最中に、たまたま猿島砲台と千代ケ崎砲台の国史跡指定を祝うシンポジュームが開催されたので、調査関係者一同が打ち揃って聴講させて頂いた。この時に主催者が盛んに猿島砲台には房州石が使われていると強調するのを聞いて根拠を聞きたかったが質問を受けて頂けなかった。台場のごく狭い範囲の護岸には房州石か伊豆の凝灰岩かやや判断に迷う石材が使われていたが、それ以外は殆ど地元産出、或いは鷹取山付近の石材と思われる石材が積み上げられていると思っていたので、そんなに見落としはしていない筈だがとと思いながら再訪して見た。
猿島は横須賀のJR横須賀中央駅からほど近い「三笠桟橋」からのフェリーが在る。片道10分程度の船旅。毎時1往復程度の頻度で運行されている。フェリーの運航その他については下記を参照のこと。
https://www.tryangle-web.com/sarushima/
島の入り口には高い崖が聳え、この日は数多くの「鵜」が体を温めていた。地山はこの程度の急崖を保持できる程度に適度の地山の強さを保持している様だ。
島の施設の南側の旧桟橋側の古い護岸を海岸側から観察すると塩害風化に傷められた安山岩類と共に、鎌倉石に似た茶褐色の恐らく野島層~浦郷層に由来すると思われる石材が多用されており、房州石は見当たらない。
島の周囲を取り囲む護岸の一部を見るとほぼ安山岩が用いられている。第一海堡や第二海堡では、房州石は用いられているがほぼモルタル被覆により塩害風化を避けており、房州石が表に出るケースは少ない。
島の北東端に在る「海浜展望台」から海岸に下った地点の、弘化五(1847)年~嘉永六(1853)年に築かれたという「台場」の古い護岸は、画像に横線を入れたが、下部は房州石或いは伊豆の凝灰岩が用いられているが、横線より上は野島層の石材が用いられている。特段の根拠は無いが、当時の房州石は海岸の埋め立てや陸上の護岸・擁壁の用途が多く、海岸の護岸に用いられた石材は長年の実績が多い伊豆の凝灰岩質石材の可能性が高いと思われる。
砲台施設の中のトンネル部は、天盤アーチ部は肌落ちを防ぐ為かモルタル類が塗布されているようだが、側面は素掘りのままで地層が観察される。海底土石流が下部の地層を削り込んだ状態だろうか? 灰色の部分の石質を確認しておかなかったのが残念!
砲台の連絡通路は自立している地山も在るが、地山に類似した切り石を高く積み上げている。房州石の様な縞模様は観察されるが、石材の地肌の色は茶褐色で有り野島層か浦郷層のものと思われる。代表的な房州石ではこれほど茶褐色~赤褐色系は少ないのです。
島の北西部。日蓮洞と云われる海食洞が存在する。三浦半島では比較的半島の西側の葉山層群に石灰岩が混じるようだが、ここではやや高い位置に石灰石が観察される。(矢印)石灰岩の近くのやや大きな角礫風の岩塊は恐らく「シルト岩」と言う奴だろう。
葉山層群は三浦層群より古い地層だから、ここの石灰岩は葉山層群のものとは別なのだろうか?地層は難しい。
「三浦半島の地質」の画像に「三浦層群池子層」と「上總層群浦郷層」の不整合として紹介されている画像と同じ位置の画像。この付近の「黒滝不整合」相当部分は緩い傾斜不整合または平行不整合らしいので判り難い。池子層は「泥岩・火砕岩互層(鷹取山・神武寺軽を除く)だから、礫岩が結構下まで有るのでその下の海食棚の部分が池子層らしい。
http://www.edu.city.yokosuka.kanagawa.jp/chisou/search/syosai_05.html
これも日蓮洞下の露頭だが、かなり大きな岩塊が存在する。取敢えず石材になりそうな地層でも無いし、良く観察しなかったのが今となっては残念。

2020年6月24日水曜日

岩石と地層の表情:057;石橋に用いられた鎌倉石

京浜東北線の西南端に近く、大船の北東側に在る「本郷台」の南を流れる「いたち川」があります。昭和30年(1955)代から、住んでいる人々には申し訳ない表現ですが、凄まじい自然破壊による宅地開発で鎌倉市内とその周辺部は地図を見るのが嫌になる程の住宅地化が進んでいます。この「鼬川」の南側には「鎌倉石」に使われる石材が含まれる地層が分布していた為に、今は既に地名としてしか残っていないものもありますが、沢山の石橋が架けられていたようです。今回は、この流域と、浄智寺の近くの「明月院」前の小さな流れに架かる石橋をご案内します。
この付近の地質図(横浜:5万)の抜粋です。水色の細い線は大まかな「鼬川」とその支流の流路を示しています。白で囲んだNjは上總層群野島層。tgとtsもその中の顔色が異なる部層です。Ofは大船層で凝灰岩よりも泥岩系。Koは小柴層で砂質凝灰岩の部類でしょうか?石材にはなり難い地層です。
長瀬橋です。目立たないのでこの辺だと思いながら何度か往復してこの小さな橋だとやっと気付きました。左手の三角形の石材が鎌倉石の岩相を見せています。個人宅の石橋です。
長瀬橋の、その三角形の石材を大きくしてみました。その上の石材も黒黴が生えていますが、同じく鎌倉石の顔です。
経堂橋は、肉眼では良い観察ポイントがありません。道路下のかなり河床までの距離があり、かなり傷んでいるので内側に補強材を組まれているので、望遠レンズを使ってやっと補強材の外側に石橋らしいものが見える状態です。環号4号に架かっている橋なのですが、道路上には欄干も無いほぼ目立たない橋なので直ぐ傍の信号機のある交差点は「千載橋」です。
この水系で現存する凝灰岩の石橋で最も美しいのがこの「昇龍橋」です。但し、欄干の部分は花崗岩製で後付けです。奥に階段が見えますが、この橋は本来この奥に在った神社への参道として架けられたものです。地質図の左下に真っ赤な太枠で囲んだ「今泉」と言う地名が見えますが、(結構広いのですが)、今泉に住む石工が地元石材を切り出して架橋したと伝わっています。場所は地質図の右手の薄く「八軒谷」と見える場所の若緑の丸付近です。文化財として保護されています。
神社の在った場所の崖です。この付近も一応堅そうです。
昇龍橋の少し下流の河畔の景色です。崖は結構な落差を持って切り立っています。下半分は羊歯の類が茂っていますが、この羊歯が茂るのは結構透水性が良い砂質の凝灰岩である事が多いと経験的に判っています。崖には単管パイプを用いた個人用の橋が架けられて対岸に穴を掘って何かの用途に使っていると思われる場所もありました。
経堂橋の近くに中島と言うバス停がありますがこの近くの露頭に生痕化石がありました。この様な小さな露頭は歩いているから稼げる観察ポイントであり、車で移動する時には拾えるものではありませんね。草臥れますけど・・・GPSが在ればポイントを確認出来るので万全です。
同じ場所の生痕が邪魔にならない部分で粒度組成を確認します。この曲がり尺は野帳に挟める大きさなので便利なのですが、落としやすいのが難点です。今度工場の近くの工具店で買った時に穴を開けて貰って首から吊るすかな?
明月院前の道路(明月院通りと言うそうですが)の片側に小さな水路が在り、大部分は新しい橋ですが、明月院に近い付近に数か所小さな石造アーチ橋があります。その一つです。
これも同じく明月院通りの石橋です。明月院に行かれてもし時間に余裕がありましたら、線路の反対側の浄智寺の山門や階段・石橋なども御覧になっては如何でしょうか?お勧めします。

2020年6月23日火曜日

岩石と地層の表情:056;北鎌倉 浄智寺の鎌倉石

北鎌倉から比較的近く、しかも1280年代の創建と言う由緒のある割には知られていない(50年前に友人に連れていかれるまで私は知らなかっただけの話だが)寺院に「浄智寺」が在ります。勘違いが有って、この付近は石材が採掘出来るような地質では無いと思い込んでいたのだが、地質図を見ると「浦郷層」と「野島層」になっているのでこれは石切場が在るかもしれないと数十年振りに出掛けてみた。残念ながら石切場の存在は確認出来なかったが崖の地質や、五輪塔、石橋、参道階段等に鎌倉石が使われているのを確認。更に明月院方面では小さな石橋が使われているのを確認する事が出来たので次回に合わせてご案内します。
上半は「横浜地域の地質図幅」で「上総層群野島層と同じく浦郷層」、下半は「横須賀地域の地質図幅」で、同様に「上総層群浦郷層」こちらは「野島層」の解釈が「横浜」とは少々異なるらしい。石材をやる時は、地表の地質ばかりを見ていると失敗する。同じ地質・地層でも場所に寄って「機械的性質」と言うか「岩石の性状」は大きく異なるので注意が必要なのです。
この橋を渡る事は出来ませんが、門前には小さな池が設えられて「寺域」と世間を隔てており鎌倉石が使われています。
橋の歩行面(歩いちゃいけませんが)にはこの通り鎌倉石が使われています。
境内の五輪塔には鉄錆色の艶を感じる程の渋い色合いを示すものが有ります。
境内にはこの様に「やぐら」状に掘り込んだ場所もあります。この石塔も勿論「鎌倉石」です。岩壁の方も、鎌倉石とよく似ています。
石塔の一つを近寄って観察してみました。房総半島の「七里川石」によく似ていると思います。背面の壁の掘削痕はこの空洞が石材の採掘では無く「やぐら」として掘られたものである事を示しています。
境内には、自然に形作られたとは思えない様な急峻な崖が在り、この様に深く掘り込まれています。正面は残念ながら立入禁止なので近づけません。壁面の掘削痕を見たいのですが適いません。
寺域の各所に、かって堂宇があった場所なのか?、将来の墓地用の土地の確保の為か、この様に掘り込んで階段まで地山を切って造成している場所がいくつもあります。階段も地山そのままなのは、この土地がかなり固い状態である事を示しています。
正面の石橋に続く参道の階段石と石垣の状態です。何れも「鎌倉石」が使われています。今はこの階段を使わない様に脇道が出来ています。大切に残して頂きたいものです。
階段石の比較的地肌を観察し易いものを例示します。スケールは 17 cm です。