2020年7月4日土曜日

岩石と地層の表情:067;新田荘で天神山石を用いた五輪塔を観察

石切場で見る石材は、或る石造物がここの石切場で採掘されたという確たる証拠でもない限り、既に採掘された後の痕跡を見るだけでは、別の石造物を観察する際の参考にならないので可能な限り、同じ地域の良く似た石質の石造物をたくさん見ておく事が重要だと思っています。新田荘に関しては「金山城」同様に太田市教育委員会からパンフレットが発行されていますので、必要に応じて下記からDLしてご利用ください。
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/shiseki_pamph.html
2~3か所の天神山石を用いたと思われる石造物をご紹介します。今回は「別所町・圓福寺」の五輪塔群です。残念ながらここにたどり着いたのは夕方遅くの既に黄昏時と言える時間帯でした。尚、十二所神社については残念ながら光量不足で写真は撮る事が出来ませんでした。
五輪塔はこの様に屋根付きの場所に安置されています。石質は「天神山石」と「安山岩」のものが有りました。
別に画像をご案内しますが、ここで最も重要な五輪塔です。恐らく、当時採掘された石材の中でも上質のものが使われていると思われます。
最も古い五輪塔は「元亨四(1324)年のもので、新田義貞の祖父新田基氏の法名(と思われている)と七十二歳で逝去された事が刻まれています
やや表面が粗い五輪塔の一部です。
天神山で観察したようにスコリアの粒子が含まれています。浮き上がって見えるのはこの厚み分だけ表面が風化で剥離している事を示しています。
五輪塔は上から「空」・「風」・「火」・「水」・「地」の構成ですが、「火輪」に使われている石材に、板状の節理を示すものが含まれていました。
風化に拠るものか、風化以前の構造的なものかは中間的な様相を示すものが他に無いので良く判ません。
風輪の表面の風化状態です。自然風化時の表面の類似性を見るのに良い資料です。
風輪も様々です。クラックや欠けが生じているものも多そうです。
梵字を刻んだ部分の風化状態を見ています。

2020年7月3日金曜日

岩石と地層の表情:066;金山城と金山石凝灰岩

このお城に関しては町の教育委員会が電子データでパンフレットを公開していますので興味のある方は参照下さい。
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/shiseki_pamph.html
古い時代の山城ですが、節理の発達した流紋岩質凝灰岩の山の上に築城しているので、比較的石材の採掘が容易だったと見られ、「矢穴」の痕跡が残る石材は僅か数点(確か三点)。で矢穴があるとされる石材の何処が矢穴かな?と写真を撮ろうとしたら撮影禁止だと叱られました。岩石の年代は、天神山石の御案内時にご紹介した産総研の高橋雅紀氏による論文(1991)に記載されています。
地図は産総研のシームレス地質図に赤線は東武電車の路線を示し、緑は経路を示しています。城のある山の山頂近くには駐車場がありますが、山麓にはガイダンス施設(赤四角)がありますので先に寄ってからの方が良さそうです。
小さな赤丸は高橋論文のサンプル採取場所です。露頭が在ります。
駐車場から城址に向かう途中の柱状節理の露頭です。ここは叩いちゃいけませんが、来る途中でKy-2露頭で見た岩石はかなり固いものでした。「一部が強溶結した流紋岩質火砕岩類」と定義されています。残念ながらこの付近では本質レンズを観察する機会は有りませんでした。
右手の「物見台」下の堀切部分は、地山の火砕岩を掘り起こしています。
「大手門虎口」付近は最大の防御点でしょうから両側から石垣が迫っていて生半可な戦いでは通り抜ける事はおぼつかない雰囲気です。雨水を逃がす水路も城内の不断の生活では問題ないでしょうが、闘いの最中には、寄せ手の足元を狂わせそうですね。
基壇上の石組が、敵の侵入を阻むのでしょう。こんな上から狙い撃ちにされ、更にこの基壇上の石組の上には伏兵がいるのでしょう。
何段にも組み上げられた石垣の下は、同質の硬い火砕岩の地山です。
石垣の一部を拡大して見ました。切り揃えた石材ではありませんが打込みハギと言う石積でしょう中々堅固な石垣の様です。矢穴跡の雰囲気が観察される岩塊が在ります。
火砕岩の節理がスパッと切れていて面白いですね。
山頂部に建立された神社の参道階段に敷き詰められた石材です。勿論これも火砕岩です。
こんな山上の城内にも生活を守る池があります。

2020年7月2日木曜日

岩石と地層の表情:065;天神山:馬見岡凝灰岩露出地

天神山はやや交通不便な場所にあります。石器の展示で有名な岩宿から更に西に在り、車での移動が不可欠の様で、バス路線を探してみましたが最寄りの路線は無さそうでした。
ここでは細粒のガラス質の白色凝灰岩が採掘されていますが、何れも小規模でこれでは大型の五輪塔など制作出来るのだろうかと疑問に思っていたのですが、その北側の「坊谷戸」付近では比較的規模が多く石材が採掘されていた様で、国土地理院の1974年から1979年の写真地形図を見ると直線的に山を切り開いた雰囲気が見えます。残念ながらその付近は既に宅地化しています。
最寄り駅或いは国道からの位置関係を示しています。天神山の南端側に少々判り難くく狭いながらも駐車スペースがあります。
笠懸村史から抜粋した天神山の石切場跡分布図です。90度回転していますので左が北になります。緑線がGPSトレースから想定した私が歩いたコース。黄色の細い線が、確かこの位置に細い踏みつけ道が在ったと記憶(前に来た時の)する位置。石切場 1 の半分位が駐車スペースです。
駐車スペース脇の、ここでは一番広い石切跡です。割れ目が多く、それでも切り出し跡は小さくこじんまりとしています。
山中の石切場は殆どこの様に雑草に覆われ石材の露頭は見えない事が多いのです。枯葉と雑草の下に岩塊が潜んでいる事が多いので、踏みつけ道以外を歩く時は注意して下さい。
雑草の下から出て来た岩塊です。明らかに石切工具の跡が残っています。
石材を採掘した跡です。ハンマーの大きさと比較してこれでは大きなものを製作する事が出来ないと思います。小型の五輪塔も難しそうです。
石材を採掘した跡の隅に、タガネの様な工具痕が残っています。(前の画像と比べると石工に拠って作業法が異なるようです。いろんな石工が来てごく少量採掘して持ち帰っていたのでしょうか?)
駐車場脇の少し奥の方の石材を見るとクラックが多くこれでは採掘しても使い物になりそうではないですね。
駐車場脇に有った大きな岩塊の一部に貝殻の陰影のような模様が見えました。海成層ですからあり得る事ですね。数 mm の小さな陰影なので超接写です
小さな岩塊を一つ割らせて頂きました。軽石も入っていますが、小さな黒い砂粒程度の岩片が数多く含まれているので、これは特徴と捉えて良さそうです。これは持ち帰って平らな面を研磨し顕微鏡で観察します。

2020年7月1日水曜日

岩石と地層の表情:064;群馬の藪塚石丁場跡

千葉県にまでは群馬の藪塚石は入っていないと思われるのですが、この近くの「天神山凝灰岩」が千葉県内にある五輪塔の素材として使われていると云う論文があります。
石材も人間関係で思わぬ場所まで運ばれる事も有るし、残念ながら何故その五輪塔の素材が天神山石なのか明確な理由が記載されていないと思うし、その石材の事をほとんど知らないので、兎に角天神山やその近くの石材を見に行こうという事になり、まず導入部として藪塚温泉付近で採掘された「藪塚石」の丁場を見学したのでご紹介します。これから一週間程度は群馬県が舞台です
シームレス地質図に歩いたルート図を緑線で記入したものです。実線は露頭を調べる都合で我々が移動したコース。鎖線は少し近いだろうルートです。東武電車を藪塚で下車し田んぼの中をトコトコ歩くと丘陵の縁に出て道路が二股に分かれます。ここに大正十年の「藪塚石材之碑」顕彰碑があり、傍に、レンズ状の圧密構造が観察出来る露頭があります。
この露頭のK-Ar年代に関しては、産総研の高橋雅紀氏による『群馬県東部金山地域に分布する溶結凝灰岩のK-Ar年代』(表題検索で閲覧可)を参照下さい。
車の通れる道路から藪の中に入る分岐点には小さな案内看板がありました。
石丁場跡の入り口です。明治の中頃から採掘が始り、明治三十六年に石材組合結成。土台石や火に強かったのでカマド等に加工され、関東諸府県(当時は東京府)から長野まで販路があり、最盛期には350名の採掘従事者が居たが昭和30年頃に大谷石が機械化を成し遂げた為に駆逐された様です。尚、石切り場は此処だけでは無く尾根沿いや、少し南東に離れた太田市菅塩でも知られています。他の場所は整備されているか判りません。
この石丁場は最初は恐らくこの付近から表土を剥がし、表層のクラックだらけの石材を捨てながら下に掘って行き次いで横に、地下採掘へと進み、現在の前面に搬出口を設けたものだと思われます。
比較的均質な凝灰岩と思えたのですが、所々に、主に黒い岩片が密集しています。これでは採掘に苦労した事だろうと思われます。
黒い岩片を含む転石がありましたので割ってみました。玄武岩にしては斑晶が随分多いような気がします。
採掘跡を良く観察すると、白い凝灰質の固まりが見えて来ました。意外と不均質な感じです。右手の壁に黒い岩塊が見えます。
天井を見上げると石材店さんの名前と屋号が書かれていました。石材屋さんに敬意を込めてご紹介します。ここは他人が悪戯のしようがありません。クラックも多いようです。
切羽側から丁場の入り口を眺めた図です。細くなっている部分の石材は表層に近い為に割れが多くて使えないので、出入りの為に必要な幅だけを切り拡げています。
切羽がかなり不規則に切り拡げられているので、岩塊や割れ目の為に採掘に苦労しただろうことが偲ばれます。

2020年6月30日火曜日

岩石と地層の表情:063;観音崎 崖と素掘りトンネル内部に地層の描き出す景観

折角、観音崎に行かれたなら、灯台からの景観や、その灯台周辺の崖に見られる地層の重なり、或いは素掘りトンネルの内面に観察する事が出来る地層などを楽しんで頂きたいですね。但し、色々と改修工事の為やコロナウイルス対策で一時的に入れない場所も在るので事前に確認してからお出かけ下さい。例えば  こんなサイトがあります。新しい施設(旧弾薬庫:煉瓦造:パークセンター)等も出来ていて、簡単な地図も手に入りそうです。
https://www.kanagawaparks.com/kannon/
取敢えずの地図:赤い線で示した部分に素掘りのトンネルがあります。大きなトンネルの方はなんだか入口にいろいろと注意が書かれて居ますが、いずれにせよ自然災害に合うか否かは自己責任の選択で・・・確か、照明のスイッチを入れて一定の時間が経つと勝手に消えるから注意してね!だったと思います。自然博物館に近い方は短いですが、何れにせよ、小さな明るいLED ライトを持って居ると観察にも便利です。黄色く塗った部分は自衛隊管理下で立入禁止です
まずは灯台のすぐ裏手の露頭です。灯台の入口は左手の急坂を登った先です。ここなら地層の観察ものんびり出来ますね。
坂の上から側壁を眺めた図です。自然の風化だけでは無く削り取ったような雰囲気の部分もあります。
側壁を正面から写しています。トンネル部と異なり、黴も殆ど無く、鎌倉石に似た地層やリップルなども観察出来ます。石材観察の練習に一つの地層の中の不均質等をチェックするのも良いですね。
灯台の集光レンズもこの様に観察出来ます。灯台の回転部分は、摩擦と摩耗を極力減らすために昔は水銀のプールに浮かべていた筈ですが、今でも同じなのでしょうか?
博物館の近くから入る短いトンネルは小さいとはいえ、スケール代わりに先行していた方を入れて慌てて写したのでですが、窮屈さは感じない程度の十分な大きさです。
おっと、これは海岸に面した洞窟でしたね。「権現洞窟」でしたか?これも海食洞なのでしょう。前回にご案内すべきでした!
大きな素掘りトンネルは「関係者以外立ち入り禁止」、とか「一定時間で照明が消える」とか書かれていましたが、「地層の重なりを観察する好機」を逃すか、否か自己判断でどうぞ?
多きいトンネルの壁面の一部です。カビで白くなった場所も在りますが観察には程好い大きさですね。天井部分は剥落防止ネットが張られています。

2020年6月29日月曜日

岩石と地層の表情:062;観音崎 地層の描き出す景観

三浦半島のこの付近は、三浦層群の池子層と逗子層が出ている筈なのですが、地質の知識に欠ける小生には、画像を見ながら「この層は・・・」と解説刷る様な事は出来ません。昨日28日は対岸の保田で調査等をやって居たのですが、天津層の泥岩の丘の上に住む両氏の方から、目の前の砂浜で大潮の干潮時には保田層群の江月層ツルハシの先端が割れる様な硬い露頭が見える事をお聞きしましたが(昔、美味しい穿孔貝を取るのにツルハシで岩を割っていた)、平面的な地質図を見ながら上下関係を考えるのはどうも苦手です。折角、観音崎の話題を取り上げたので、今日は海岸の風景を、明日は二つのトンネル内で観察される地層の重なりをご紹介します。この地域は、自衛隊の管理下に在る地域があったり、台風被害の復旧が未完の場所も在り、歩かれる際は事前に現地の状況をよく調べてからお出かけください。
旧軍の施設の残骸が岬の先にありますが付近は立入禁止です。望遠レンズを使用しています、背後の煙突は旧横須賀火力発電所のものですね
波打ち際に小規模の石切の痕跡があります。よくまあこんな波打ち際まで採掘したものですね。溝の有る部分の左手は採掘した跡なのでしょう。
地層は緩やかに褶曲していますが所々にスコリアの硬い層(黒い部分)を挟んでいます。
崖の形状が二か所ばかり少し不自然です。或いはここも石切の跡かもしれないと思ったのですが、残念ながら近付けません
岩相変化が面白いのですが、波の間隔が短いので渡れませんでした。
この日は結構波しぶきも強い日でした。穏やかな天候ならばもっと別の場所を歩くので、結局海岸線を歩くのはこんな日になってしまいます。
最初の画像に取りあげた監視所の建物を反対側から見ています。