2019年9月20日金曜日

9月20日:幸手市西関宿~茨城県猿島郡五霞町山王山

関宿橋西詰を起点に江戸川右岸を遡り、13日に見逃したポイントを拾ってから関宿城博物館までを歩く積りでスタートしたが、西関宿地区は関宿の関所が置かれた場所だけあって、小さな神社や墓地の脇の無住の庵まで、伊豆半島南部の凝灰岩質石材が大量に使われており、何気ない農道の脇にも同じような凝灰岩が転がっている。石碑類は勿論、明治以降のものは石巻産の「井内石」なのだが、神社内の石碑類はほぼ「根府川石」が使われている。整然と整備された寺付の墓地は別にして、集落毎の小さな墓所には、同様に伊豆の上賀茂付近の凝灰質石材が使われているので、観る場所が多く、No.992~995 までの調査資料が調整出来そうだ。もう直ぐ、1,000件の通過点だ。

先週:13日と今日20日に歩いたコースのGPSトレース。今日は、11,673歩。地図上の距離だと 5.5 km 余りだが、夫々の観察ポイントでは右往左往するので歩数は増える。13日は五霞ICの西側まで足を運び、今日は上流側に足を伸ばした。

石灰質生物遺骸が豊富だけれど凝灰質の砂粒も多く含む取敢えず「石灰質凝灰岩」と呼んでいる石材の中でも石灰質が豊富で実に丈夫な素材が大量に敷石や礎石として使われていた。

石灰質凝灰岩と呼ぶ石材の標準的な(でもやや石灰質が多いが)石材で比較的表面状態が良い石材の接写拡大図。画像の横幅は 7 cm.

根府川石の石碑表面の拡大図。手彫りの文字が石工の苦労を偲ばせる。

関宿関所跡の案内看板。

「棒出し」と云う「減勢工」の説明図。この棒出しに、栃木市の「岩舟石」が使われたのだが、今は何も残らない。関宿城の川沿いには、大きな岩舟石の石材が参考用に置かれている。千葉県立中央博物館の秋の地質観察会は、この石材の石切り場と、これを利用した建築物などを巡る。私も来週の金曜日は岩舟周辺の建築物の補足調査を予定している。

権現堂川と江戸川の接点は実はこの付近に在ったのです。権現堂川はこの付近では北東に流れて利根川と合流するのだから面白い。画像の右端の方に「関宿城博物館」の小さな天守が見える。

「海から 59.0 km」(東京湾から)標識。中央やや右手に「関宿城博物館」の天守。

上賀茂付近で採掘されたやや粗粒の、火山岩片(砂礫サイズ)と粒状組織の凝灰質。文化十(1813)年癸酉に建立された十九夜供養塔の礎石部に使われた石材の上の面なので、風雨に晒されて、粒子の輪郭がはっきりと見える。この供養塔の「蓮華座」と「礎石」はこの凝灰岩なのだが、最上部の石仏や塔身は別々の材質なので、何度か補修されたものだろう。

関宿城博物館方面に帰り始めた時に、予想外の方角から地域のコミュニティバスがやってきた。バス停は直ぐ傍。博物館まではあと 1.5 km はある。博物館まで行った方が途中観るものも有るし、帰り着くのもかなり早いのだが、目の前のバスの誘惑には負けてしまった。

2019年9月16日月曜日

四日間の山形と新潟の旅:斜長石英粗面岩

間瀬海岸と言えば、枕状溶岩の聖地のような場所で多くの方々が巡検や、沸石類の鉱物採集で音連れているらしい。何度かその旅を計画したのだが、その度に台風だとか集中豪雨だとかで中止を余儀なくされていた。今度の旅では、この間瀬海岸で「枕状溶岩」を外しても確認したい露頭があったのだが、それが「白岩海岸」を中心として北は「花立」から南は「獅子ヶ鼻」まで続く白色岩の続く海岸だった。実はどうやら間違った情報だったらしいのだが、この白い岩が「石灰質」に富んだ凝灰岩だと云う情報を随分昔に仕入れていた。
でも、流紋岩質の美しい露頭を観察する事が出来たし、斜長石の大きく( 2.5 mm )実に透明度の高い結晶が流紋岩質の岩石中に含まれる事があるのを知る事が出来た。
今日は、出勤途中に国会図書館に立ち寄り、「1/20 万 新潟県地質図」を確認して、「斜長石英粗面岩」と言う岩石だと知った次第。予想通り、1/20万では細かな分布は判らない。「新潟県地質鉱産誌:1962」も拝見したが、何れも間瀬海岸の石灰岩なんて記述は見られなかった。とんだガセネタだったが、面白いものを見る事が出来た。

石灰岩の露頭だとばかり思いこんで「花立」の岬を訪ねたのだが、何だか風化の具合が石灰岩らしくない。石灰岩の露頭は、北九州と山口で青春を送ったのでかなり見慣れている積り。

岬から南を見ると「白岩」が見える。「白岩」とはいうものの、下部は緑色凝灰岩。この岬の画像は別稿。

硬い!軽くハンマーで小突いてみたが石灰岩の硬さでは無い。傷も付かない。流紋岩質としか思えない

流理に直角の断面があった。絶対に!石灰岩じゃないと確信がもてた

蘚苔類が表面を覆っていたが浮き石を一個拾わせて頂いた。蘚苔類を剥ぎ取るのは大変だろうと思いながら・・・私の観察用途に、夏場は観光客も訪れるだろう露頭でハンマーを振るう程野暮じゃない。

側面。

流理模様。濃淡の白と灰色の層が積み重なっている。これは洗浄直後のまだ湿った状態での実体顕微鏡の画像。

幾つか文献を当たったが「斜長石英粗面岩」だとしてもこんなに大きな斜長石の斑晶は珍しい様に思える 長さは 2.5 mm 程もある。

斜長石の透明度が余りにも高かったので、視野一杯に広がった斜長石の結晶を観た時は、あれだけ束子でごしごし擦ったのに、結晶が抜けた後にクモの巣でも張られたのかと思うほどで、地質仲間と大笑いしてしまった。待てよ、「透石膏」なんて可能性は無いだろうか?最初に観た時に、蜘蛛の巣が張った様に見えたのが少々気になるので、金曜日に博物館でもう一度観察してみよう!

茨城県猿島郡五霞町:幸主神社の凝灰岩と安山岩

埼玉県の幸手周辺部の落穂ひろいをしようかと、FWに出たのだが、地理院士地図を拡大して要部を複写した時に県境を見落とした様で、最初は幸手市内の西関宿を歩いていたのだが、フト、道路標識を観ると「茨城県に脚を踏み入れてしまっていた。雑草が生い茂り、廃屋の様な「神社」が続き、幸手市内に戻ろうと思いながら、圏央道の五霞ICの下を潜り抜けて暫く歩き「幸主神社」に辿り着いた。
この付近の神社の常で、水害対策の為だろう 3 m 近い土盛りの上に鎮座している。「由緒沿革」を記した石碑に拠れば、下総国葛飾郡幸館新田村に天明四(1784)年に、稲荷大明神として祭神し、大正二年に周辺地区の香取神社を合祀したものとされる。社殿は拝殿と本殿の間に渡り廊下の無い、埼玉東部でたまに見掛けるやや不思議な造りである。昭和五十六(1981)年に社屋を再建し遠目にも本殿の礎石は大谷石が使われており、今日は収穫は殆ど無しかと思ったが思いの外面白いものが現れた

社殿は土盛りの上に鎮座まします。鳥居は新しい花崗岩。土盛りの前面は河原石で押さえられている。階段は安山岩

拝殿と本殿は間が通り抜けられる別個の建物で、渡り廊下が無い造り。これが実に調査に役に立つ結果となった.右手が拝殿。

土盛りの斜面の外側に数十個残置されていた石材。ほぼ形状寸法は同じ。恐らく本殿の基壇か礎石につかわれたものであろう。伊豆半島南部の須崎付近を中心に採掘された石材

石材表面の観察例:風化で白い部分が目立つが、これは珪藻類他の石灰質生物遺骸。火山岩系の砂が混ざる。画面横幅は 10 cm

石材表面の観察例:画面の高さは 60 mm

本殿基壇の石材は大谷石の見立てだが、基壇側面の一部に苔生した別の石材が含まれているのに気付いたが、表面の蘚苔類で岩相が確認出来ない

本殿と拝殿の間で本殿基壇の上段に大谷石では無い凝灰岩の石材が見付かった。右上は大谷石。

凝灰岩の上側の面:火山岩礫・砂が観察される。切石の幅はほぼ 18 cm

石材表面の風化により明らかになった堆積時のラミナを接写拡大。少し、房州石にも似た石材で南房総の下賀茂付近で採掘されるものと同じらしい

最近、良く出会う、真っ直ぐな流理構造を持つ、安山岩溶岩。細長いものを切り出すのには、この様なものが有利なのだろうか、鳥居や階段の脇石等で良く観られる。これは階段の踏み石の例

同様に階段の側板。これも薄くて細長いものが必要なので良く判る。こんな真っ直ぐな流理模様を持つ安山岩質溶岩は何処で採掘されたのだろうか?