2019年10月11日金曜日

岩船町「わしの巣」の薬師院跡

栃木市岩舟町に、その昔には鷲が巣を造っていたという地区があり、田の端に小さな墓地が残り、花崗岩の「薬師院跡」の標柱が建てられている。たわらに 一本の、あるいは元は「六地蔵」だったかもしれない標柱があり、所々、風化で剥がれ落ちて、伊豆軟石特有の淡い緑色が見えている。安山岩質石材の馬頭観音は、岩舟石の石材を馬車で山から降ろしていた時代の名残だろう。当初は「修羅」を使って石材を平場に降ろしていたが危険が伴うので何時の頃からか馬車が使われる様になった。トラックが山に初めて入ったのは「岩舟石の資料館」を造られた故川島氏の忘備録に拠れば昭和13年11月4日。この日、馬車組合員の反対の襲撃があると言うデマが飛び、石屋の親方達は喧嘩支度で車に分乗したが何事もおきなかったと云う。

崖の左手の方が切れ込んでいるのは、2011年の東北東日本大災害の地震の余波。左手の崖は昔の石切り場の跡である。

新しい墓標も有るが、苔むした石碑が多数存在する

欠けたり、剥がれたりでややいたわしい石柱は伊豆の凝灰岩で出来ている

僅かに残る仏の姿から六地蔵であった事が想像できる

風化剥離した部分にカメラを目一杯近づけて、体を石碑に固定して動かないように注意しながら接写を試みる。スケールを置く余裕は無いが、嬉しい事に細かな部分までよく写ってくれている。砂粒程の細流部分と、割れて尖った角礫状の凝灰質の塊が程よく混じり合っている。これが、石工さん達に「みどり」と呼ばれる、彫刻に適した緑色凝灰岩の組織だ。掘り出されて彫刻を施された当初は,濃緑色だった筈だ。画面の横幅は、恐らく 1 cm 以内だろう。

時代は確認できなかったが「根府川石」に似た石材に彫られた「馬頭観音」自動車が

「日露交戦」と「馬力」の文字が読み取れる。普段は岩舟山を上り下りしながら石材を運んだ馬も、日清・日露の戦役の際には、戦地に送られたのだろう。

墓地の南西側の隅には、庚申塔や石仏などが集められているが、みな岩舟石なのだろうか、風化と蘚苔類の着生で文字は殆ど見えなくなってしまっている。

2019年10月9日水曜日

四日間の山形と新潟の旅:上越市西本町:府中八幡神社 その二

少し距離は有るが、今回の旅の目的の一つは、間瀬海岸の「白岩」は、石灰質の凝灰岩だという「うわさ」を確認する事だった。果たせなかったが、「石灰質凝灰岩」等と云うものは実は非常に少ない。伊豆下田付近で産出し、千葉・埼玉に多く運ばれて来た石材に、石灰質の生物遺骸に富むものが有るのだが、これとの類似性があるのか否か確かめたかった。また、「夏川石」と云う矢張り石灰質生物遺骸にとむ砂岩系(凝灰岩ではないらしい)の石材と含まれる化石が似通っているので、何処かで実例を観察したいと思っていた。府中八幡神社では果たせなかったが、正保二年(1645)製の緑色凝灰岩製の鳥居の残骸を観察する機会を得たのでご紹介したい。鳥居は木製を以て最上級とされるらしいが、年代もここまで遡ると、山形方面の凝灰岩製の鳥居以外は風化により年号が読めなくなる事もあり、観察例は非常に少なくなるものです。

拝殿の庇を受ける柱の束石。凸型の形状が良く判る。

束石の側面を接写で拡大して観察。

社殿の床下は太い針金の金網で囲まれているのだが、これも同じ種類の緑色凝灰岩の様だ。

床下をこまめに覗きこんで居ると、鳥居の島木の様な形状の緑色凝灰岩が見えるのに気付いた。

金網の為に写し難い事夥しいのだが、島木の隣になにやら文字を刻んだ柱らしい形状の同じ緑色凝灰岩の円柱が有りなにやら文字が刻まれている。



小まめに無駄を承知でかなりの枚数の写真を撮影したが、その中の一枚に、画像を回転すると「二暦乙酉八月」の銘が見える。干支は60年に一回巡るので1500年以降の干支で、「乙酉」でかつ「二年」を探すと「正保」、「宝永」、「明和」が相当する事が判った。

鉄板で保護されているが、緑色凝灰岩の鳥居の柱に「天保五」までの文字が読める。

八幡宮と刻まれた部分も緑色凝灰岩らしい。

四日間の山形と新潟の旅:上越市西本町:府中八幡神社

予定には無かったのだが、上越市で一時間半程過ごさねばならなくなり、地図を頼りに行き当たりばったりにバスターミナル近くの「府中八幡神社」に足を踏み入れてみた。
雪国の神社にしては雪囲いがそれ程厳重では無いのでホッと一安心して使用されている石材を調査してみた。画像が多いので二回に分けて御案内する。

社殿を斜め前から観た図。本殿も余計な加工夷が無く、基壇の石材も観察する事が出来る。

狛犬の形が、南側の方だけやや異形なのだが、どうやら「兎」らしい。建立は私より五歳年上の1940年。東側の鳥居傍のは普通の狛犬。

年代の割には、勿論少しは痛んでいるが台座の彫刻もしっかりとしている

素材は、どうやら凝灰質砂岩らしい。発泡した岩片や、赤く酸化色を呈す砂粒も観察される。残念ながら新潟方面の凝灰岩に関しては全く知見がないので、産地などは不詳。

柱の下の「束石」は、数種類の石材が使われており、これは軽石質凝灰岩。これも勿論産地は判らない。

束石の素材を接写してみた。結構細かな軽石片らしいものが見て取れる。

本殿の基壇には、安山岩系統が多いようだが、凝灰岩が疑われるものも含まれている。

本殿基壇の上の束石の一つに補修跡が剥がれて素地が見えているものがあり、どうやらこれも凝灰岩らしい。これも当然判らない。

これも本殿基壇の上の束石の一つ。斑晶が多く含まれた岩片が多いので、ハイアロクラスタイトと云う奴を疑うが、自信が無い。「間瀬石」の中にはこの様な顔付も有るかもしれないと想像するばかり。 続く

栃木市岩船町鷲巣:鷲神社

残り一か月となり、そろそろ受け付けも始まりそうな岩船町での「県外岩石観察会」の下見に今回は一人で出掛けた。「鷲神社」は岩舟山よりはやや北に位置するが地層は全く異なるチャートの山で、比較的最近までチャートが採掘されていた。神社は戦国時代に建立されたと伝わる歴史の古いもので、境内も無人ながら整備されて落ち着いた佇まいである。
ここを訪ねたのは歴史的な経緯から、鳥居に岩舟石が使われている事と、伊豆の凝灰岩質石材が入っている事を期待してのことで、狙い違わず、両方を確認する事だった。

二の鳥居と境内のたたずまい。

左手は能楽堂。綺麗に整備されている。参道の敷石と階段は岩舟石。

燈篭の一部は、伊豆南部の凝灰岩質石材が使われている。文久三亥(1863)、年明治四(1871)年と十(1882)五年のものが伊豆の石材で、大正九年のものは白河石。

伊豆の石材は二種類。何れも緑色凝灰岩だが、一つは細粒の緑色凝灰岩で、他の一つは粒状の組織が目立ち、小豆色の小岩片を含むのが特徴の凝灰岩。



石垣のチャートと、その上の玉垣の岩舟石の画像。大正十二(1913)年の建立。

手水鉢:明治四十一(1908)年十一月の岩舟石

手水鉢に使われている岩舟石は結構粗粒のものが多い。

拝殿の奥には多数の岩舟石を用いた岩祠が並んでいる。

前の画像の一番奥は稲荷神社だが、その前に比較的細粒の凝灰岩を用いたお狐様。

実は、一番最初の画像に写っていた二の鳥居は岩舟石を用いているのです。一部補修されているものの、現存する唯一のものかもしれない。

観察会の下見用として歩いた領域。最初に行った時のコースは消えて、フラッグのみが残っている。今回の「鷲神社:は地図の北端。観察会は赤の鎖線の楕円形で示した範囲になる模様。