2015年7月7日火曜日

岩槻の街中の伊豆石 (6) 旧小林文吉商店

現在は商売をしておられませんが、街道筋に面したこのお店は元々藁工芸品を商っていたのだそうです。この外観の中に2ヶ所石灰質砂岩が用いられ、一か所に別の伊豆石が顔を出しています。
 建物の左端にこの画像の石灰質砂岩が有ります。右端にも同様に石材が使われ中央部は別の石材です、本来は左右の壁の腰巻として家屋の奥まで繋がっている筈ですが、それは確認する事が出来ません。
 石材の表面は風化で少し荒れています。現代の大気汚染が酸性雨をもたらし風化を進行させたのだと思います。石材としては結構硬い石です。
 裏手の久伊豆神社への参道側に雑草に埋もれてこの石材が置かれていました。モルタルのべた基礎の下にも同じ石材が見えます。
 この様に貝殻の細片が見えますがその種類は判りません。
8-11日の間個人的な露頭観察旅で留守をするので更新致しません。

2015年7月6日月曜日

岩槻の街中の伊豆石 (5) 藩校・遷喬館の束石の一つ

 遷喬館は比較的最近に復原修繕工事が実施されてコンクリートのべた基礎の上に鎮座していますが、束石の殆どは以前から使われていたものが再使用されています。玄関の葛石には大谷石が新たに使われている様ですが殆どが安山岩やチャートの玉石で比較的近い場所から持って来られたのではないかと想像しています。
 蛇足的な話を先にしますが、「岩槻」は昔は「岩着」とも書いたと言われている様です。岩槻の歴史をご教示頂いた方から「何故、石材なんか無いこの場所に「岩着」の文字が充てられたのだと思うか?」と尋ねられた事が在ります。私は、はるか上流の群馬県の玉村付近では、シールド工事の際に大径礫が地面下にゴロゴロしているのを観ていますので、あるいは洪水などの際に、大きな岩がこの辺まで流れ着いたのかな?と思っていますが、埼玉県のボーリングデータを観ても(ボーリングは「点」でしかないので)この辺の証明にはなりませんでした。

本題に戻ります。遷喬館の束石は図示(復原修繕工事報告書から引用)の通り数多くありますが、丸で囲んだ一個の束石は貝殻細片を多数含んだ石灰質砂岩が使われています。玄関部分の四角く書かれた束石も伊豆の凝灰岩だと思いますが、これはこの外観だけでは判断出来ません。

その束石の外観がこれです。写真を取る時に石材の表面に妙に光るものが有るのでゴミが付着していると思って手で払いのけようとしたら、実は貝殻の断面が見えて居ました、下の画像はその部分の接写です。何故、一個だけなのかは謎です。

遷喬館の基礎部分を北側から観た画像です。束石・葛石共に大部分が安山岩系統です。手前の小砂利がある雨滴石は今回の追加工事です。雨滴石と建物の間の白い部分はコンクリートのべた基礎・耐圧盤です。

2015年7月5日日曜日

岩槻の街中の伊豆石 (4) 御典医の屋敷門前の石材

 伊豆の下田市付近に産出した石材が岩槻の街中に数多く現存すると言っても、探すのは結構大変です。石蔵、石塀、石垣等は通りを歩けば目に入って来ますが、岩槻の場合はその類の用途は残念ながら一例も観察する事が出来ませんでした。
 同じ伊豆系と言っても、真鶴付近の「新小松石」はお寺や神社の石垣に、同じ真鶴付近の「根府川石」や、東北の石巻市の北上川に沿った河口の丘陵地に産出する「井内石」も石碑に使われているのでこれも良く観察されます。特に井内石の石碑は統計を取っているので立入禁止の場所以外は全て計測もしています。

 最初にご案内するのは藩校,遷喬館から近い場所に位置する岩槻藩御典医の家系の御屋敷の門前です。赤で囲んだ部分に伊豆石の貝殻片を含む石灰質砂岩が使われています。右手には潜り戸があるので、門前の御影石製の敷石との関係で水溜りになり易い場所に石材を敷いたのだと理解出来るのですが、左手がいけません。ぽつねんと置かれた石材は如何にも居心地が悪るそうです。
右手の石材を観た時に少し青味を帯びた部分が有るので(3枚目の画像を観て下さい)大谷石だと諦めかけたのですが、銅板があるので希望は在ると見直して貝殻の細片か骨片かここでは判断出来ませんが見付けたので、ホッと一息です。
門の左手のこの2個の石材は何故此処に置かれているのか?理解に苦しみますが、あるいは塀の柱の支えの束石用に仮に於いたのかもかもしれません。
 門に近い塀の上の瓦が銅葺きでした。滴が下に在る石材に浸み込み、緑青の色が大谷石に誤認させる事は何度も苦渋を舐めているので、青い色が在ったら周辺を見回して銅製品が無いか? チェックをするのが習慣になっています。
 貝殻の細片が実に多いですね。堆積面に並行に石材を採掘すると丁度貝殻層の多い部分が隙間が多いのではがれやすく、仕上げを行わない荒削りの石材に現れる事になります。