2021年3月13日土曜日

凝灰岩質石材の旅:千葉県鋸南町・天寧寺:移住させられる岩と土:No.124630-29

 『周辺土砂は神奈川や東京湾岸の土となり、緑色岩化した枕状溶岩は群馬から運ばれて庭石となる』

国土地理院地図座標:35.115848,139.845325

JR内房線:安房勝山駅から佐久間川に沿って徒歩:約 1.8 km

館山自動車道を東京湾アクアラインから南下すると、富津の手前では広大な太陽光発電所敷地となった砂取り場が広がり、富津に近付くと「鋸山」の景観が見え、更に南下して「鋸南富山IC」付近に差し掛かると、段々に区切られたはげ山の景観が広がり始める。この付近は江戸が東京に変わる頃から大量に土砂の採掘が行われて、勝山の港から土砂運搬船が東京湾の対岸に向った地域。内房線の西側は別として、東側は殆どが土取場だった筈だが、地層の中に部分的に「泥岩」或いは「凝灰岩」に匹敵する部分が含まれていて、「鋸南町」と鋸山の南の街と云う名なのに房州石の利用は少ない。

土取場に隣接する様なこの地域の古刹と集落の氏神様の「天寧寺」と「熊野神社」が現存する。天寧寺の入り口の道路は、裏の土取場からのダンプの出入りも有って幅広く造られているが、その一部に地元のやや硬い泥岩を用いた土塁が築かれ、房州石に似た石材の燈籠がある。残念ながら改修作業中で職人が入っているので、中は拝見しなかったが、道路に面した庭に緑色岩の枕状溶岩の岩塊が庭石として置かれていた。職人さんと雑談した時に、私がこれは群馬の渡良瀬川の河床辺りから持ってきた庭石ですね。と云うと、まとめて持ってきた庭石の一つだよと言われた。

周辺土砂は東京湾の対岸に運ばれ、緑色岩は群馬から運ばれてくる。ちなみに、この付近の河川には蛇紋岩礫が転がっているが、実はこれは三重県鳥羽市の菅島辺りの蛇紋岩が館山港経由で運ばれて、蛇籠に入れて使われていたものが脱落した可能性が高いので、河床での蛇紋岩採集はお辞めになった方が良い。

鋸南富山IC」付近の段々になった半分はげ山の風景。土取場の跡
天寧寺入口付近に築かれた泥岩~凝灰岩の石塁
石塁に用いられている「岩石」の中には、乾裂が見える泥岩も混じっている
石塁に用いられている「岩石」の中には、乾裂が見える泥岩も混じっている。でも硬い石材ならこんな風にはならない。
道路脇の大型灯篭は地元の凝灰岩質石材で造られているが、さて何処で採れたのやら?
火袋の辺りは「房州石」と変わらない顔をしている
庭石に置かれていた緑色岩の枕状溶岩。この手は、群馬県の渡良瀬川流域や南牧川流域には数多く露頭が在る。火山の会でも何度か観察会を開かせて頂いた。
緑色岩化した枕状溶岩の拡大図
安房勝山付近のGoogle 写真地図。白い線は安房勝山駅から天寧寺迄の多分最短距離で約 1.8 km。水色の斜線を施した部分は広大な土取場の跡。緑色で囲んだ尾根には枕状溶岩の露頭が在る。

2021年3月12日金曜日

凝灰岩質石材の旅:千葉県鋸南町・白幡神社:丸彫り三猿庚申塔:No.124630-33

 国土地理院地図座標:35.106479,139.833909

JR内房線:安房勝山駅から徒歩:約 1 km

房総半島南部は凝灰岩質の地質が広く分布しており、鋸南町でも鋸山に近い場所では房州石(元名石)が多く使われているが、安房勝山付近は地産地消型の石材が多く流通した地域です。特に、この安房勝山付近は、東京湾の対岸地域の埋め立て用途の為に凄まじい土砂採掘による地形の改変が凄まじい地域になっているが、所々に意外と丈夫な石材となる地質が分布して「地産地消」型石材として今でも神社や古刹などに祠や石垣・参道階段等が残っている。この日は内房線の東側の小さな社や古刹、無縁墓地等を回って、地元の「堤ヶ谷石」が採掘されていた場所に近い高度は低いが急峻な崖の梺と、細い細い痩せ尾根上の神社を訪ねてみた。ここでは、私は初めて観察する機会を得た「丸彫り三猿」をご紹介する。

参道階段こそは改修されコンクリート製だが、石垣は地元の石材で築かれている。狛犬は苔生していてとても石材を観ることは出来ないが、恐らくは伊豆の緑色凝灰岩製
階段を上がって右手を見ると、この付近の石材を使った、凝灰岩としてはやや大きめの石祠が六基。屋根を掛けて守られているのだが、見慣れないものが見える
やや風化で「溶けている」大きな石祠の傍に、プラモデルの「ガンダム」の様なものが寄り添っている。
接近して見ても元の形状が何だったのか、判らないのだがどうやら、庚申塔に付き物の「三猿」の一つが「丸彫り」されている状態らしい。勿論、これで一体。
左手のやや大きな石祠に、似た様な形状のものが二体入っている
そのガンダム的形状の部分を拡大。この二体は頭があるので、確かに「猿」と言われれば見えない事も無い。
傍に鋸南町有形文化財「山王系庚申石祠一基」とある。寛永十九(1642)年の年号が刻まれていた事が確認されているらしい。この付近の凝灰岩は、南伊豆から運ばれて来た凝灰岩程硬くは無いので普通ならば文字は溶けて読めなくなることが多いのだが、
あるいはこの石祠を長寿命にする為に考え出されたのか、屋根がとても大きいので、石祠の側面に雨が当たらないので寿命を稼いだのかもしれない。
この付近はメランジェの露頭が在るので、時間さえあれば海岸線を歩くのも楽しい。白旗神社は図の中央部の赤丸だがその南にもう一つの赤丸がある。これは急傾斜の参道を登った痩せ尾根にある「愛宕神社」の位置。この白旗神社の境内から参道が伸びている。資料用に堰の俯瞰図が欲しくて登って見たが残念ながら見通しが効かなかった。

2021年3月7日日曜日

凝灰岩質石材の旅:八千代市大和田・大和田時平神社:No.122211-06

 所在地:千葉県八千代市大和田793

国土地理院地図座標:35.719518,140.102536

京成本線:京成大和田駅から徒歩 1.2 km、東葉高速鉄道:八千代中央駅から徒歩:1.4 km

藤原時平を祀る神社で慶長十年に創建されたとされるが詳細不詳。同じく「時平神社」は市内に他にも(小坂時平神社・菅田時平神社・菅田下時平神社)現存。現在の社殿は昭和五十八年十月に屋根等の改修がされた事が工事銘板で、また、基壇は赤色安山岩の亀腹から明治三十七年九月の造営になる事が確認される。

ここでは、余り類似例を観察していない基壇の石材と、比較的保存状態が良い燈籠火袋の石材をご紹介する。基壇の石材は大きな礫を含む淡い緑色凝灰岩なのだが、石材表面の礫を観察するとこの礫が立体的に(縦横高さ寸法共に)大きなものも含まれてはいるのだが、平面的に大きいが実は薄い礫では無いかと思われる、軽石が押しつぶされて平らになっているけれど大谷石の「ミソ」の様には粘土化していないし、圧密度も黒曜石化するほど高くはないものらしいのです。産地は特定できていないけれど、併せて使われる石材に伊豆の凝灰岩が多い事や、性状が少し似た石材が伊豆に在るので、これも伊豆の凝灰岩だろうと考えています。燈籠の石材は、上賀茂などに産出する粒状組織を持つ緑色凝灰岩だと判っているのですが、本来なら一番最初に風化で溶けてしまう筈の「火袋」が美しい状態を保っているので、後年の改修品だとわかるのだけれど、その改修時期が不明なのが残念です。

基壇石材のやや広い範囲を見ています。大きな礫があるように見えて、剥離している部分は非常に薄い事が判ります
基壇石材の字拡大図です。剥離している部分の厚さが薄いだろう事が画像から見て取れると思います。
基壇上の亀腹の下に敷かれた礎石も似た様な表情をしていますが、この場合は奥行き方向にも形状が繋がっている事が観察されるので、全ての礫岩が薄く圧密されたと言う訳では無いようです。
礫岩の部分を拡大して見ると、余り圧密を受けた様な雰囲気ではありません。表面の加工のせいもあるのでしょうが、かなり隙間さえありそうです。
基壇の表面に近付いて撮影すると、淡い色合いの基質の中にも大量に小さな礫が混じっているのが判ります
基壇に上がる神主さんの階段ですが、こちらは硬そうな雰囲気ですが風化色が基壇と同じなので、同じ産地でしっかりと溶結した部分とやや加工し易く、礫が造る模様が美しい部分と有るのかもしれません。石切場に辿り着いてみたいものです。
燈籠は安山岩製が多いのですが、共通して言えるのは火袋が比較的細粒の砂質凝灰岩で改修されているらしい事です。
凝灰岩質の石材を用いた火袋です。スケールが少し斜めになっているので画像が歪んで見えますがこれは単にスケールの置き方のせいです。
時平神社の社殿です。この付近はこのような様式の社殿が多いですね。
安山岩製の神社額です。新しいものだと思いますが、側面からは造立時期が見えませんでした。
所在地です。神社前の広い通りは「成田街道」と呼ばれているもので、もう一つの時平神社はこの地図の右手、道路の北側にあります。通りに沿っては社寺が比較的多い様です。