2020年5月9日土曜日

岩石と地層の表情:009;下総型板碑の素材:飯岡石

今日の地図はかなり広域です。銚子半島や利根川から西側は匝瑳市まで入っています。中間の白い線が、大まかな旭市と匝瑳市の境目です。緑で囲んだ部分が屏風ヶ浦。左端の赤い点の辺り、匝瑳市の段丘崖の上に西光寺と言う古刹が在ります。この西光寺の境内に屋根に保護されて下総型板碑が鎮座しています。かなり大雑把な分類ですが、「常総型」と言うと、この白い板碑を無視して筑波の泥質片岩が素材のものを指し、「下総型」と言うと、両方が含まれるようです。白い板碑は「飯岡石」と云われ緑で囲んだ「屏風ヶ浦」の崖が浸食されて海岸に落下したものを、利用するパターンです。
白い板碑と言っても、所々に「あばた」が在ります。これはかなり共通した特徴で、大体文字を彫刻施した側に在り、裏側ではほぼ観察されません。裏側は生痕化石があり。線状の凹凸のが有るので、浅い薬研彫の板碑には邪魔になり使えないのです。


板碑の説明です。現在は「匝瑳市」ですが、この説明が置かれた時期には「八日市場市」と「匝瑳市」が合併する前でした。
「あばた」の部分の拡大です。黴が生じているので、白っぽいですが実は火山の噴火の際に飛散するスコリアです。
緑の楕円で示した屏風ヶ浦を銚子の「地球が丸く見える丘公園」の屋上から見た風景です。白い筋目で判るように地層が西下がりの緩やかな傾斜で下がっている様に見えます。
静かに堆積したように見える地層も、黄色の線で示したように、台地の変動は大きく影響を与えており、地層がぐにゃりと折れ曲がってしまった場所もあります。地層が積み重なって現在まで平坦な時間の経過だけでは無かったようです。
崖の上の方を見ると、所々に白い地層が崖面から少し出っ張っている所があります。この部分の突き出し量が大きく成り過ぎるとポックリと折れて落下してくるようです。
「あばた」がどの様に出来るのか簡単な説明です。「あばた」を「荷重痕」と言います。この画像は内房の勝山の海岸で撮影したものですが、まだ固まっていない地層に何らかの力が加わると上下の地層の平行が崩れて尊境目がこの様に波打って見える状態になります。これを「火炎」構造と呼びます。
火炎構造を、上の粗い地層を取り除いて立体的に見るとこのように凹凸が出来ています。、ここまで極端ではありませんが、「荷重痕」は上の地層が下の地層に少しだけ食い込んだ結果なのです。

⑪ 白い地層は大部分が石灰質の殻を持った「有孔虫」の小さな化石の積み重なったものですが、上にスコリアと言う火山砕屑物が層を成すくらいなので、白い地層の中には、火山灰起源の「火山ガラス」が含まれている事があります。破面を観察するか、破面を希塩酸で腐食して少しだけ取り除いてやると、顕微鏡で火山ガラスが良く見える様になります。

岩石と地層の表情:008;銚子と瓦;メランジェの粘土の贈り物

黄色の線で囲んだ部分に、銚子の「瓦屋」さんが多い時で17軒ありました。右手の工場(水産加工場)が並んでいる部分は埋め立て地で、その境目が段丘崖になっています。その崖の付近に良質の粘土が採れ瓦を焼き始めました。今でも製造は出来ませんが、愛知県の高浜あたりから仕入れた瓦を販売し、施工する瓦関連業者さんが沢山立地しています。左端の水色の部分では良質の銚子砂岩が採掘されましたが、台地のかなり高い場所なのに何故か湧水が多くて深く掘り下げる事が出来なかった場所です。
緑色で囲んだ範囲には、2回目でご案内した、チャート礫の混じる砂岩の露頭が分布しています。赤色の範囲には古銅輝石安山岩の露頭が在り渡る事も出来ます。
黄色と緑が接している付近には、以前はチャートの露頭がありましたが、埋め立ての細にかなり失われ、現在は雑草に隠れて探すのは少々苦労でしょう。

モノトーンの絵は「大共同」と呼ばれた瓦用粘土の洗い場の様子を描いたものです。昭和60(1985)年に「郷土史談会」に失われた風景を記憶に残したいと、「平林久恵」さんが書かれた記録に、その後友人が挿絵を描いて下さったもので、地図で云うと黄色と緑の線が上側で離れる辺りにあった様で、平林さんと一緒にその痕跡を探して頂きましたが、探し出す事は出来ませんでした。私が「郷土史談会」を訪ねて例会に参加した事から、いろんなメディアに平林さんが取り上げられるようになりケーブルテレビの取材を受けたので、多くの方々にこの事が知られ、平林さんがご友人と二人で車を駆って私の調査に同行して下さったので、古瓦のサンプル入手や調査・観察が大変順調に進み本当に助かりました。

瓦には、葺いた状態では見えない場所に、この様な刻印が打たれており、この刻印で夫々の製造業者さんが判ります。現在の瓦よりやや厚めなので手に持った時に、古いものか新しいものか判ります。

④ 瓦は「ダルマ窯」と言う炉で焼かれました。この直径40cm強(左手の白い用紙はA4)の絵皿は、取材当時93歳だった宮川さんが家人もご存じ無かったものを
話の最中に急にフラリと居なくなったと思ったらひょっこり思い出したと云って、倉庫から探し出して見せて下さったもので、三州の粘土屋さんからいただいた「ダルマ窯」の絵皿です。

瓦の材料粘土の調査は、薄片を造っても焼成したものだけに、他に比較する薄片観察画像も殆ど無く(薄片観察画像の含まれた研究報告が一件だけ手に入りましたが)
ほぼ真っ暗なので困りました。仕方が無いので瓦を 1cm程度の厚みで短冊に切り、両面を研磨して表面に現れた岩片を観察する事にしました。

研磨後の表面を撮影した例です



岩片の部分を接写拡大した例です。

愛知県の瓦産地である高浜市に現存して、年に一度は火を入れる現役のダルマ窯を見学させて頂きました。粘土は瓦工場の敷地そのものが粘土山の上に立地していました。
粘土のサンプルは丁度工事中の作業場の外の地面から直接採って下さいました。縦長の開口部は左右二ヵ所に在り、此処から乾燥した瓦の成型品を窯の中に運び込んで積み重ねます。

群馬県藤岡市のダルマ窯です。御主人が不在でお会い出来ませんでした。また粘土も旧来のものは無く入手出来ませんでした。
滋賀県近江八幡市の瓦美術館に展示されたダルマ窯の復元品です。ここは落ち着いた町並みで、瓦製造組合が設立した美術館でその時代にも一度訪ねていたのですが
今は近江八幡市の管理になっており、技術的な資料はほぼ得られませんでした。

2020年5月7日木曜日

岩石と地層の表情:007;飯沼観音から本銚子まで

銚子の街中で一挙に銚子砂岩を観察しながら古い街並みを楽しむ事が出来る私の一押しコース。2013年春の千葉中央博物館の「銚子ジオパークを訪ねる」に組み込んで案内させて頂いた。全部で3km以内。車で行く方は飯沼観音の脇か裏手に駐車場があります。

黄色の線が推奨コース。

飯沼で銚子電鉄を降りたら、坂道を下り交差点の向こうが、目立たない「銚港神社:と派手な「飯沼観音」です。神社に入るとすぐ右手に銚子砂岩で造られた鳥居の残骸があります。本堂の右手辺りにも鳥居の柱の部分があります。

飯沼観音では参詣は本堂右手奥に向かうと、これもまた銚子砂岩の「宝篋印塔」と「五輪塔」があります。一応、金網のフェンスで囲まれていますが、多分、鍵は掛けられていないので近寄って観察出来ます。奥の黒くて四角い石碑は石巻産の井内石です。

飯沼観音の裏口から出て大谷石の石蔵の脇を通ります。わざわざこの大谷石の蔵をコースの中に入れた理由は、石材の中に流紋岩質の小岩塊が含まれているからです。
尚、この建物は、当時は海岸に面して建てられていたのが、埋め立てで港から離れてしまいました。

壁面で観察出来る小岩塊の例です。現在流通している「大谷石」とは少しばかり岩相が異なるので、正確な産地(山)はまだ確定していません。銚子には茨城の石材も入っているので、そちらも調べていますが今の処、「大谷石」という事にしています。
2013年から全く進展が無いのでだらしない話です。

銚子砂岩をレンガ大の大きさに切って積み上げた石蔵です。持ち主が東京住まいなので、連絡が取れず詳細を調べかねています。

石材の一部を大きく写してみました。

神宮寺商店さんの石蔵の残骸です。2011年に屋根が潰れました。大きな良質の銚子砂岩を使っています。良く見るとラミナが観察されるものも有ります。撤去されなければ良いのですが・・・この建物は、実は水色で塗りつぶした今は公園になっている場所が、かっての船溜まりで、そこに面していたのですが、埋め立てられてしまい案した。遅い水路で港につながっていました。

一ヵ所、交通量の多い歩道の無い狭い道路を歩く時は車に注意して下さい。段丘崖の途中を道路が走っているので拡幅出来ない様です、信号から本銚子駅に向かう途中の坂道にも砂岩の石垣が在ります。小学校の通学路も片側が銚子砂岩の石垣ですが、パスしても良いでしょう。尚、坂道の途中に静海寺さんがあります。元気が余って居たら、トントンと階段を上がって境内を歩くと、穿孔貝の巣穴化石が在る手水鉢、房州石の石塀、古銅輝石安山岩と砂岩がコラボした不思議な形状の燈籠、古い銚子の瓦などを見る事が出来ます。

2020年5月6日水曜日

岩石と地層の表情:006;外川漁港東側の畳岩;大潮の時には渡れます

白い丸で囲んだ場所が「畳岩」と云われる防波堤状の砂岩の露頭です。潮が引くと、砂浜から高さ3m程の砂岩の岩体が現れます。この干上がった浜と隣東隣の浜では古銅輝石安山岩の質の良い転石が採取されます。

外川の築港作業が行われている時代に、今の利根川流域の二つの村が「畳磯」という場所で砂岩砥石の切り出しを巡って争いを起こしています。この「畳磯」が何処にあったのか?古文書には示されていないのですが(飯沼村地内)、今の飯沼観音周辺には砂岩の露頭は考えられないので、この場所を探し回り、「畳」の文字を冠する「磯」に相応しいのは此処だと考えた次第。今は磯の部分が採取されて「畳岩」。外川の街の整備時期とやや重なる時期でもあるので、、外川の街を整備する為には波止山(日和山)の砂岩は採掘された事は考えられます。波止山の名も、「防波堤」を築く為の石材を採掘したからと言う記録もありますが、別の文書では「防波堤には長崎鼻から岩石を運んだと」の記載があります。砂岩よりは安山岩の方が理に適っていると思われます。

岸から見ると、普段波の上に出ている部分も少ないので低い岩体と思われがちです。

干潮時に近づくと、意外と高く素手では上の面に上る事は出来ません。

いろいろと場所を変えて試しても、登る時は良いのですが、下りの際に足掛かりを探せないので、仕方なく、釣りに来ていた方々の折り畳みの梯子をお借りして登りました。

層理面が海側に下り傾斜ですが、釣り人が沢山います。一声掛けて人物入りで撮影させて頂きました。

岸の側を見ると、砂泥互層の部分が行儀よく並んでいます。ここが「磯」だった場所で、採掘し終わって今は砂が覆っている状態になったと思っています。

これを近づいて観察すると、ノミの跡は観察出来ませんがスパッと直角に切れています。

「畳岩」の名の由来はこの砂岩の顕著な「方丈節理」から来ているのは明らかです。上に上がって初めて納得できました。。

厚みも、砂泥互層で程好い厚みで剥し採る事が出来そうです。

転石の古銅輝石安山岩を割ってみました。気孔の観察されるものもありますが、破面は意外と緻密で新鮮です。

2020年5月5日火曜日

岩石と地層の表情:005;外川漁港;紀州漁民が築いた町並み

銚子電鉄の終点に外川の街が開けています。黄色の線で囲んだ辺りが外川の街です。
外川の町並みは、自然発生的に広がった町並みでは無く、寛文年間(1661~1673)に紀州漁民のリーダーであった治郎右衛門が、外川の漁港に防波堤を築き、次いで、町並みの区分を定めて、傾斜地に港に真っすぐ向かう車力が擦れ違う事の出来る(左側通行だったそうです)砂岩を敷き詰めた道路を造り、ひな壇の様な居住地には同様に、砂岩の擁壁と横に走る道路網を作った事に始まります。

二枚目の画像が「木国会史(紀州出身の方々の親睦組織:「木国会」の歴史です)」に掲載された当時の市街図です。

この外川の町並みをのんびり歩きながら、銚子砂岩を観察する事が出来る訳です。砂岩だけでは無く時には真っ黒な玄武岩も有りますし、港の擁壁の中には貝化石が含まれた
砂岩も含まれています。

道路面は既に舗装されていますが、この様に様々な積み方の擁壁があります。

傾斜道と交差する、人がやっとすれ違う事の出来る横の道沿いには、黒黴や地衣類が着生していない砂岩石垣が観察される事があります。

石材の中には直方体に成形されたものや、海岸で採取した穿孔貝の巣穴の化石が残ったものも含まれています。その内、この穿孔貝の貝殻の不思議もご覧頂く心算です。



漁港の比較的東の方の石垣に、化石が入った砂岩を使った場所が少しだけあります。前の地図で左側の(東端)の水色の円で囲んだ場所。二枚目の地図では「波止山」と書かれた場所から採掘された砂岩です。波止山の採掘跡は漁労具等が置かれており露頭に取りつくのは困難です。入って行くと誰も居ないと思っていても「化石は採れないよ!」等と声を掛けられることも多いようです。

貝化石の入った部分の拡大図です。千葉県立中央博物館の地学展示室に、断面を研磨した化石入りの砂岩が展示されています。貝の名前も記載されています。

これは「トリゴニア」という二枚貝の化石の残影です。

化石を含む砂岩が使われている場所のヒント画像です。