2011年6月8日水曜日

房州石・古墳(Q-1)川崎 馬絹古墳

神社の社殿裏にこの小さな古墳があります。古墳を取り巻く石の列が野毛大塚古墳の発掘写真にあった環状の石の列を思いださせます。
はっきり言って、さきたま古墳群の博物館展示にある「房州石」が使われている古墳リストにどのような経緯でこの古墳名称が上げられたのか?理解に苦しみます。さいたま(さきたま)では穿孔貝の生痕化石が残ったままの手で抱えられる程度の大きさの泥岩をほぼそのまま利用して石室を形作ったもの。この馬絹古墳では「泥岩」ではるが、大型の切石を精密に加工・接合(形状的な接合であり、接着ではない)使用しており穿孔貝の生痕化石は見当らない。

さきたま古墳群では「泥岩」と言う共通点だけで何でも来い的なかなり乱暴な議論の様に思える。この様な乱暴な議論が、「房州石だから!房州石なんだ」と怒鳴るような状態を生み、既に主として鋸山から切り出した凝灰質砂岩でその美しさで建材にも多数使われて来た歴史を持つ房州石というものが有りながら、「富津磯石」をも「房州石」と言い切ってしまうような、非学問的な態度を作ってしまうのだろうか?
尤も、将軍山古墳の「再現」古墳内部には「石室は現在、床の部分しか残って居ませんが・・・」と書かれているが、切石が古墳の石室を飾っている。
再現展示の床面は円礫で壁面の無い部分には不定型の少し大きめの富津磯石らしいものが置かれ、穿孔貝の生痕化石が残る泥岩(砂岩?)の説明書きには「横穴式石室に使われた房州石」と書かれているのに、将軍山資料館の説明には「石室の壁には・・・「房州石」、天井には埼玉県寄居長瀞周辺でとれる緑泥片岩が使われており・・・」と書かれている。
何故・壁面の切石(念の為に記すが、再現石室だけでなく説明書(ガイドブックさきたま17頁)にもその様に書かれている)も「房州石」なのか?理解に苦しむ。泥岩と言う事だけなら、長瀞の更に上流の「ようばけ」等でもしっかりした泥岩が採集出来そうに思える。長瀞や「ようばけ」の画像も何れご案内しましょう。

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