2019年3月10日日曜日

幸手市下宇和田:中川沿いの観音院と香取神社 (2/2)

幸手郷土資料館に一枚の村絵図が有ったのでご紹介する。昨日ご紹介した「観音院」と今日ご紹介する「香取宮」が川沿いに描かれている。この「惣新田」の正確な名の由来は把握していないが、河川流路の改変で得られた「新田」ではなかろうか? 更に、権現堂河岸に連なり舟運で栄えた地域らしく驚く程に社寺の数が多い。
この地域は、舟運の繁栄と共に在ったので、房総南部の今で云う南房総市や館山との結び付も強かった様で、過日ご紹介した「南房総(嶺岡産)蛇紋岩に刻まれた石造物(2/2)」でご紹介した「安房の三名工」の技術を継承し彫刻師が幸手に住んだ事が判っている。山下家諏訪神社の装飾彫刻を行った「後藤義光」は南房総市佐久間の出身である。
江戸時代初期の再興と言われる「観音堂」の礎石は「玉石」であったが、香取神社の基礎部分は既にコンクリートで固められていたので旧情は不詳。

村絵図:幸手市郷土資料館蔵。昨日ご紹介した「観音院」と今日ご紹介する「香取宮」が川沿いに描かれている。

権現堂川の記憶:幸手市郷土資料館蔵。大正時代の川舟(貨物船)が描かれている。

幸手市史民族編:第五章 交通と交易。権現堂河岸の石塚回漕店扱いの船貨を詳細に記録した大正八(1919)年の水揚帳の記載貨物を整理して記載したもの。「石」の記載と共に「石材」,「房州砂」,「砂」,「伊ヨ石」,白土(館山や茂原地域の白土:ガラス質火山灰層を「磨き砂」用として採掘したものと思われる:引用者注),石粉などの記載有。
  
香取神社の狛犬は、栃木県北部の芦野石(白河火砕流堆積物の弱溶結部)と思われる。年代は不詳だが草加の青木石材店殿の扱いである。



一対の灯篭は伊豆の上賀茂付近で採掘されていた細工物に適した緑色凝灰岩と思われる。造立は明治三十三年十一月。棹の背面に「採石」の刻銘が読めるが、確か幸手にはこの文字を含む高名な書家が居られたのでは無かったか?正しい姓名(号)を思い出せない。表の「御神燈」の文字が光る。石工は幸手町の齋藤冶部兵ヱとある。

明治三十三年から119年を経過しているのに火袋の部分も健在である。この石材に特徴的堆積模様が粒度の違いで現われている。

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