2017年11月30日木曜日

野田市でのフィールド調査を終了

チョイト手抜きでFBからコピペをやるとこんな事に成ってがっかり!これはこれでお許し下さい!

 10月初旬から野田市内を歩き始めて約二か月が過ぎ、野田市内を合計15日間、公共交通機関を乗り継いで市内にある132の神社中108ヶ所を歩き終えて一応、野田市内でのフィールド調査を終える事にした。残りの神社はインターネットで画像を確認し、こじんまりとした「祠」程度の社殿に改修されて境内も整備されて、古い時代の石材の欠片も無さそうな状態雰囲気の場所が残るがこれは「労多くして実り無し」の可能性が高いので初めから除外していて、他の神社を回る時にも遂に立ち寄る機会が無かった場所。来週からは文献調査に入る事にした。

 散布図は野田市内の調査結果を北緯・東経の座標に描かせたもので、赤丸は下田市須崎付近の石灰質生物遺骸(化石細片)が主体だが凝灰岩質の石材が使われていた場所。
緑の丸は大谷石では無い緑色凝灰岩で、下田市内か河津の澤田石と思われる石材が使われている場所。小黒丸は基礎構造がコンクリート構造に改修済で、以前の礎石の状況が確認されない場所。黒四角は前述のネット情報で調査から除外したデータを得られる可能性のほぼ無いと思われる神社。みどり△は、何処から運んだのか玉石が基礎に使われている神社。洪水等の際に赤城や日光から流れ出したものか?群馬の石材業者と繋がりが在ったものか、全く手掛りが無い。黒菱形は、栃木の岩舟石や芦野石と云った特徴が際立つ石材が中心の神社の分布。これから、石碑と文献資料に記載された創建時期や改修時期の記録と、使用された石材の種類を対比しようと考えているが、纏まる可能性はゼロに等しい。年寄りの暇つぶしだからやれる事で、科研費なんて使ってたら始末に負えないだろうと思う。
 

関宿城博物館の物見櫓から眺めた利根川から江戸川が分水する辺りの風景。遠くに見える高架橋梁は「首都圏中央連絡自動車道」

雨の日の利根運河。これは予備調査で歩いた梅雨の季節。

運河沿いに今も残る醤油製造業者の歴史が感ぜられる建物。

廃屋となった小さな社殿傍の傾斜地の落ち葉を払うと伊豆の石灰質生物遺骸(化石細片)に富む石材を用いた現われた。

伊豆産の燈籠に良く使われる現在は下田市市立幼稚園が建つ「幼稚園丁場」の石材に似た粒子変化がラミナを描く凝灰岩。

恐らくこのような高瀬舟に石材や醤油の原料を積んで行きかったであろう。「干鰯」が舟運で運ばれた地域なら、石材も運ばれているだろうから、何処まで伊豆軟石(凝灰岩)の跡を辿れる事やら!

この様に小さな祠と云える程の神社にも伊豆の石材が使われている事例が存在する。階段石は⑤と同じ伊豆の石灰質凝灰岩。

出会った不思議なものの一例:これって? 全体を日陰の中に置く為に私が変な姿勢で撮影しているので斜め画像です。まさか隠れキリシタンの十字架では無いでしょうね?

庚申塔と猿田彦大神は判るけど「文子仙」が判らない!「学」が足らなさ過ぎ!!

神社の礎石類や燈籠に伊豆の凝灰岩を使用する事は、一種のステータスシンボルだったのだろうか? 1/3 の神社に伊豆軟石が使われているのは他の地域の2~3倍に相当しそう
以上

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