2020年9月15日火曜日

FB2 004 もう片道 5 km は辛い!

 2012年から凝灰岩質石材の現状調査を行っているが、運動が苦手な分、健康維持の為に歩いて調査をする事にしたのだが、原則は公共交通機関は電車・バスを有効利用する。歩く距離はバス停等から片道 5 km 程度を目途に、それ以上に遠い場所の場合は取敢えず調査を断念する事に決めていた。片道 6 km であれば、往復 12 km で当時としては歩けない距離では無いと思うが坂道も有る事だし、目安として自分の中で決めていたのだが、こんなに長い期間続ける心算では無かったので今となってはかなり辛い状況になってきた。

土地勘が無い場所が殆どなので、「バスマップ」等の路線情報を参考にするのだが、このサービスは10月で終わるらしい。土地勘が無いので、地図の上で神社の記号を探し、出来るだけ密集している場所を選び、候補地をリスト化し、念の為に、Google の情報を確認する。この画像だけでは写し切れていないので、小さな石祠でコンクリートで固められていて回りが整地されているような場所は外すのだが、それ以外は行ってみないと判らないので原則は行ってみる。先日は、船橋市の東部:大穴と古和釜(こわかま)を歩いたのだが、バスマップの路線図を見落としたらしく、東葉高速鉄道の八千代緑が丘から一番北の目的地まで約3.5 km なので許容範囲だと思ったのだが、帰りが辛そうなので、そのまま北の御崎方面に逃げる手を考えた。結局、古和釜の中央部までバスが頻繁に入っている事が判り、対して歩く必要は無くなったがそれでもなんだかだと この日は6km以上歩く結果となった。

赤色はバス路線。目的地近くの「古和釜十字路」までは頻繁にバス便がある。北側は千葉ニュータウン側に抜ける。まわった神社はこの地区では丸で囲った6ヵ所。
北側の神明神社は Google で本殿の基壇に小さな石材が積まれているのを確認していたので、伊豆の角礫を含むやや硬質の緑色凝灰岩だと判断していたので、外すわけにはいかなかった。狙い違わず予想通りの石材が使われていた、
基壇の笠石には風化した岩塊の隙間を細粒の緑色凝灰岩が埋めている石材。それなりに丈夫で千葉では百庚申にも使われている。中に含まれる岩塊が風化していないものは美しいのだが、この石材もそれなりに美しいのです。
風化し易いのに幸いな事に基壇の造立年が「嘉永七寅年十一月吉日(1854)」と残っていた。
南下しながら二番目のお寺の境内に入ると六地蔵が目に入る。この日は三か所で凝灰岩質石材を用いた六地蔵に出会えた。造立年代が判る事が多いので嬉しい。無縁仏の墓地を覗くと数体の凝灰岩質墓標が有ったので、年号を記録させて頂く。凝灰岩製の石造物とは区分して伊豆の凝灰岩質石材の無縁仏も記録しているが、既に13基を越えた。年号の判る伊豆の凝灰岩製石造物は350件を超えている。今日、訪問した社寺は全て無住。
三番目の「湯殿神社」は段丘崖の上に在るのだが、地図には階段の記号が掛かれていて、それはそれでまた楽しみなのだが、行ってみたら階段は無く、落ち葉と根っ子がはみ出した急坂である。え!参拝者は誰も居ないの?
境内には壊れた灯篭等の石材が置き場に置かれているが、先程の神明神社の基壇笠石の素材と同じものが有るが、一本の切り石は小室石の様な岩肌だったが残念ながら引き出せない。
社殿の礎石は緑色凝灰岩。さて、登ったのは良いが、あれを下るのは苦労するなとおもいつつ・・・狭い道が有るので辿ってみると、隣接したお寺の墓地にでてしまった。
南端の老人介護施設の前の神社は、花崗岩製の玉垣が見えたので期待していなかったが念の為に拝見。改装なった本殿の礎石に緑色凝灰岩が使われていたが、望遠レンズでやっと撮影できるだけで残念。境内を探すと不動明王像(元治元年:1864)が凝灰岩製であったのと、他に祭神の不詳の石祠が数点。
最後の十字路に近いお寺さんは今日三回目の六地蔵様が出迎えてくれた。無縁墓地は竹藪の中にあり薄暗くて造立年代を特定出来ないので撮影を諦める。お寺の敷地を出ようとしたら数本の桜の木に花がちらほら咲いている。午前中に目的の場所を回り切ったので、午後は八千代市の博物館などを巡る事にした。八千代市の旧「阿蘇村」の地名の謂れは不詳。

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