「木々子神社」と書いて「このこ」神社と読むらしい。関東平野がまだ広大な海域であった頃に、この付近から陸地となっていた為に平野でありながら「高野」と呼ばれ始めたらしい。「日本武尊」伝説に繋がる言い伝えが残ると、埼玉県神社庁の名鑑に記載されている。
「木々子神社」御本体は、改修されて、異邦人にとっては外観からは特に興味を惹くものも見えないが、境内に建つ浅間塚が面白い。本来は貞治年間(1362-68)に高野城を築いた際の城の鎮守として勧請した社で、現在の場所には昭和40年に合祀されたものらしい。
浅間塚としてはむしろ簡素な造りなのだが、この階段石に伊豆下田付近に産出する石灰質凝灰質砂岩が用いられている。参詣する方々も少ないのか、階段石は傷みも少なく、表面にこのような石灰質の生物遺骸(貝砂・ウニのとげ・石灰藻・コケ虫等)が数多く観察される。
また石材の一部には堆積時の成層構造が現れている。
こんな場所までどのようにして伊豆の凝灰岩を運んで来たのか?と言う興味は意外とこの近くで氷解したがこれは別項でご案内。
浅間塚と言えば、通常は発砲したごつごつした富士山溶岩が付物なのだけれど、ここには佐野市岩船に産出する「岩船石」が観察される。切石の様なきちんとした直方体では無いので、河川の護岸工事等にも多く使われてきた石材が何かの折に紛れ込んだのかもしれないが、江戸時代に河川沿いに発達した醤油屋さんでも、水に強い石材として良く使われたのでここでの由来は判らない。岩船石には特徴的にチャート岩塊が含まれるので判り易い。
石材繋がりで更に境内を見渡すと、浅間塚の石碑は宮城県石巻市の北上川河口の左岸に広がる丘陵地帯に産出する「井内石(稲井石・仙台石)」である。これは石碑表面の立て筋が特徴の一つ。この石材は明治大正から昭和の時代に全国で用いられ、最南の地としては宮崎県日南市でその存在を確認している。白い部分は砂岩、黒い部分は泥岩で、砂泥互層が生物による擾乱で複雑に絡み合い強固な岩石となる。劈開で薄く割れるので石碑に適している。文字が風化で消える事は殆どないので、歴史資料として重要な石碑材料だが、最近は完全に黒御影に押されている。
もう一つ、興味深いものは、「木々子神社」の鳥居の傍に打ち捨てられている花崗岩の鳥居の柱の残骸である。真横から撮影すればその「すっぱり袈裟懸け」風の破断面が判り易かったのだろうが、この足元にはこの上側の柱の残骸が有り、大正十四年の年号が刻まれている。
関東大震災が大正十二年だから、被災しその後に建てられたものと想定されるが、花崗岩がこのように斜めにスパッと割れる事は稀な出来事と思われる。このように斜めに綺麗に割れるのはこの方向に或いはなんらかの弱点が有った可能性も否定は出来ないが、石工はそのような石目は見逃さないであろう。
このような斜め45度に近い角度で起こる「せん断破壊」は、よほど大きな上下動の地震を受けたのではないかと思われる。この後の新しい鳥居は平成25年12月吉日に建てられているので、折れた鳥居はおそらく2011年の「東北地方太平洋沖地震」の際に倒壊したものと思われる。
使われている石材とその想定される産地:
石灰質凝灰質砂礫岩:伊豆下田付近
チャートを特徴的に含む角礫を含む凝灰岩:栃木県佐野市岩船町産の「岩船石」。
資料整理番号:No.114642-01,最新観察時期:2015年10月28日
地理院地図10進座標系:36.048730,139.704477
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