さて、「銚子砂岩の風景」の最終回は前回オーバーフローの本銚子駅傍の海静寺のご紹介と、屏風ヶ浦の風景を少しご紹介して終わりたいと考えます。
海静寺さんは大きなお寺ではありませんが、「ジオ」的な興味深いものを観察出来ます。銚子石で造られた手水鉢です。上面の多数の穴は幾つかは本物の穿孔貝の巣穴かもしれませんが、デザイン的なものと考えてよいと思います。銚子には同じような手水鉢が他にも観察されます。
階段を上がって境内に入り左手前方に見える房州石の石塀です。砂岩が採掘される銚子でこの石材は珍しい観察例です。
傾斜地に在る境内の坂道を登り始めると植生脇に埋め込まれた古瓦が有り、その中に「黒生」の瓦である刻印観察されます。この瓦の粘土も河川系の粘土では有りません。資源が枯渇したので長期計画で調査中です。瓦のサンプルを博物館に収蔵させて頂きました。
清水小学校の校庭と同じ段丘目にまで上がるとこの不思議な灯篭が観察出来ます。古銅輝石安山岩の軸部と火袋や笠は銚子石で造られた灯篭です。
屏風ヶ浦は、名洗町側は観察用の遊歩道が整備された様ですが、地層の壁に取りつく事は出来ない様です。Googleマップを見てみるとその先は防波堤が波をかぶっている場所も有り2011年の津波で部分的に破壊されたままの様に見えます。
ここではある銚子地質観察会の際の干潮時に、遊歩道が未整備の部分で屏風ヶ浦の地層を観察した画像を数枚ご案内します。崖を下る道は数か所ありますが、その付近は駐車禁止で車を止める事は出来ません。下る道は大体急坂で水流が有り、苔等でものすごく滑り易いので防波堤まで行くだけでも大変です。名洗町付近の遊歩道が整備された部分で観察するようお勧めします。
“KG1c”と書かれたテフラ層は春日層のものです。その道のプロが表面をクリーニングしメモを彫り付けたので、横から撮影させて頂きました。プロが居られるとこんな時に嬉しいですね。助かります。
その前の地層の画像はスランプ層ですね、折れ曲がっています。
私はこの時はもっぱら軽石のチェックで終わりました。
素人の説明は全く至らないのですが、画像の数は沢山あります。面白そうだと思って頂ければ幸いです!
2017年4月15日土曜日
銚子砂岩の風景(9) 川口町から清水坂下へ:砂岩だけでは無い銚子
最初の画像は、今回ご紹介する予定の四か所の位置関係を示しています。
「岩石公園」は、利根川河口の安全の為に設置した防波堤の建設や、漁業施設の為の埋め立てで失われた「古銅輝石安山岩」の記憶を残す設置されたもので、石材と露頭の一部が移設されています。周辺には、駐車するスペースが無いのでやや不便ですが、周辺道路は漁業関係の大型トラックが走行するので「ちょっと」の時間でも駐車しない様にお願いします。雑草が生い茂る中に比較的大きな「銚子古銅輝石安山岩」と刻まれた石材と露頭がありあります。(最近立ち寄ったら草刈りされていました)
石材の表面を接写したものですが、9年前に撮影したもので写りがあまり良く無くて申し訳ありません。
「川口神社」は歴史の古い神社で長い銚子石で築かれた石段の階段が名物のようなものですが、此処では参道の途中で少々不思議な灯篭を見る事が出来ます。石材は恐らくは新小松石ではないかと想像していますが、塩害風化で軟らかい部分が削られています。
火袋の下の軸部を拡大したのが下図です。湿気が多いのか真っ白に苔でも生えているのでしょうか? 石材の調査をやっているので風化した岩石の表面には特に興味が有りますが、こんなのは初めてです。
神社の土台石に使われている切石で、これはどうやら「伊豆軟石:石灰質凝灰質砂岩」です。主として江戸時代から明治に建設或いは改修された、千葉や埼玉等の神社や宿場町の商家の土台石に使われている石材です。伊豆下田で石切り場や建築物でこの石材に出会ったのはこの後でしたから、完全に失念していました。近い内にもう一度行って再確認したいと思っています。⇒再訪し確認して来ました。間違いありません。
案内図の上から三番目は「西廣」さんです。ここは、紀州から移住してこられた銚子漁業の重鎮です。但し、普段は公開していないので100年の歴史をもつ「納屋」の横を通りながら観察する手をご案内します。「西廣」さんの南に植生を示す緑色の細い部分がありますが、その北端を目指します。小さな御社の或る西宮神社を含む小さな公園があります。ここの北側の石垣も変わっていて、大きな玉石の破断面が表に出る様に石垣を組んでいます。この様な断面を観察するのもなかなか面白いものです。
この公園の北端から北を観るとこのような風景です。西廣さんの100年を超える納屋です。邸内から見ると二棟並んでいます。これは瓦の調査の際にお世話になり撮影させて頂いたものです。納屋の前の石垣も銚子石です。
フェンスの外側を北に抜ける途中に、少し遠いですが木造の建物が見える筈です。これは木造の旧缶詰工場の建物です。
永くなりましたので清水坂下の海静寺さんで観察される石材や古瓦については次回に致します。 外川の街並みやこの西廣さんの建築物は江戸に隣接し、関東平野と漁場の太平洋を背景に利根川の舟運により江戸に東国の物産を供給し、江戸のくらしや経済を支えた貴重な歴史を記録するものだと考えます。
「岩石公園」は、利根川河口の安全の為に設置した防波堤の建設や、漁業施設の為の埋め立てで失われた「古銅輝石安山岩」の記憶を残す設置されたもので、石材と露頭の一部が移設されています。周辺には、駐車するスペースが無いのでやや不便ですが、周辺道路は漁業関係の大型トラックが走行するので「ちょっと」の時間でも駐車しない様にお願いします。雑草が生い茂る中に比較的大きな「銚子古銅輝石安山岩」と刻まれた石材と露頭がありあります。(最近立ち寄ったら草刈りされていました)
石材の表面を接写したものですが、9年前に撮影したもので写りがあまり良く無くて申し訳ありません。
「川口神社」は歴史の古い神社で長い銚子石で築かれた石段の階段が名物のようなものですが、此処では参道の途中で少々不思議な灯篭を見る事が出来ます。石材は恐らくは新小松石ではないかと想像していますが、塩害風化で軟らかい部分が削られています。
火袋の下の軸部を拡大したのが下図です。湿気が多いのか真っ白に苔でも生えているのでしょうか? 石材の調査をやっているので風化した岩石の表面には特に興味が有りますが、こんなのは初めてです。
神社の土台石に使われている切石で、これはどうやら「伊豆軟石:石灰質凝灰質砂岩」です。主として江戸時代から明治に建設或いは改修された、千葉や埼玉等の神社や宿場町の商家の土台石に使われている石材です。伊豆下田で石切り場や建築物でこの石材に出会ったのはこの後でしたから、完全に失念していました。近い内にもう一度行って再確認したいと思っています。⇒再訪し確認して来ました。間違いありません。
案内図の上から三番目は「西廣」さんです。ここは、紀州から移住してこられた銚子漁業の重鎮です。但し、普段は公開していないので100年の歴史をもつ「納屋」の横を通りながら観察する手をご案内します。「西廣」さんの南に植生を示す緑色の細い部分がありますが、その北端を目指します。小さな御社の或る西宮神社を含む小さな公園があります。ここの北側の石垣も変わっていて、大きな玉石の破断面が表に出る様に石垣を組んでいます。この様な断面を観察するのもなかなか面白いものです。
この公園の北端から北を観るとこのような風景です。西廣さんの100年を超える納屋です。邸内から見ると二棟並んでいます。これは瓦の調査の際にお世話になり撮影させて頂いたものです。納屋の前の石垣も銚子石です。
フェンスの外側を北に抜ける途中に、少し遠いですが木造の建物が見える筈です。これは木造の旧缶詰工場の建物です。
永くなりましたので清水坂下の海静寺さんで観察される石材や古瓦については次回に致します。 外川の街並みやこの西廣さんの建築物は江戸に隣接し、関東平野と漁場の太平洋を背景に利根川の舟運により江戸に東国の物産を供給し、江戸のくらしや経済を支えた貴重な歴史を記録するものだと考えます。
2017年4月13日木曜日
銚子砂岩の風景(8) 銚子市外川町の砂岩
銚子は紀州と非常に縁の強い街です。その「縁」は単に交易による縁といった事ではありません。ここでその詳細を述べるには紙幅が余りにも少ないので、詳しくは昭和十一(1936)年に「銚子木国会記念祭事務所」が発行した和装の「銚子木国会史」(国会図書館蔵:図書館送信参加管内公開)をご覧頂かなくてはなりません。
最初の図は、「銚子木国会史」に掲載された崎山治郎衛門が描いたと言われる外川の街並みと漁港の図です。私費を投じて港の工事を始めたのは明暦二(1656)年。本浦の竣工が満冶元(1658)年、新浦の竣工は寛文(1661)元年と言われる。波を受け止める主要な部分には長崎鼻から安山岩を運び、街並みや防波堤の一部には隣接する日和山(波止山)から砂岩を採掘した。
漁民の住む市街地については寛文元年に崎山治郎衛門が外川に居を移した後の事で、将来、人家が稠密した場合の有様を考えこの街並みの基本設計を行っている。この図と現在の街並みを比べて観て頂きたい。
外川には宮城県石巻産の井内石が使われた「銚子漁業発祥地外川港 開祖 崎山治郎右衛門碑」が建てられています。
さて、後は街中の様々な砂岩と安山岩を用いた石組の画像をご案内します。場所は敢て省きますので、街中を歩いてこのような風景を探してみませんか?また、もっと、面白いものを発見されたら是非ご教示下さい。
砂岩の表面が清浄に保たれていて色合いや、表面の模様が興味深いのですが、私有地に入らずに道路から観察して下さい。
風格のある落とし込みの石組ですね。
銚子の市街地にこのような小型の石材を組んだ石蔵が有りました。
貝化石が観察されます。漁港の防波堤の砂岩に注目です。
砂岩礫と安山岩礫が組み合わせられた石垣。砂岩の穴は、現生の穿孔貝の巣穴の跡です。採取した時に汀近くにあったのでしょう。
野面積の石垣は野趣豊か!
風化の造りだす模様も意外と面白いものです。次回は、川口町の散策コースです。
最初の図は、「銚子木国会史」に掲載された崎山治郎衛門が描いたと言われる外川の街並みと漁港の図です。私費を投じて港の工事を始めたのは明暦二(1656)年。本浦の竣工が満冶元(1658)年、新浦の竣工は寛文(1661)元年と言われる。波を受け止める主要な部分には長崎鼻から安山岩を運び、街並みや防波堤の一部には隣接する日和山(波止山)から砂岩を採掘した。
漁民の住む市街地については寛文元年に崎山治郎衛門が外川に居を移した後の事で、将来、人家が稠密した場合の有様を考えこの街並みの基本設計を行っている。この図と現在の街並みを比べて観て頂きたい。
外川には宮城県石巻産の井内石が使われた「銚子漁業発祥地外川港 開祖 崎山治郎右衛門碑」が建てられています。
さて、後は街中の様々な砂岩と安山岩を用いた石組の画像をご案内します。場所は敢て省きますので、街中を歩いてこのような風景を探してみませんか?また、もっと、面白いものを発見されたら是非ご教示下さい。
砂岩の表面が清浄に保たれていて色合いや、表面の模様が興味深いのですが、私有地に入らずに道路から観察して下さい。
風格のある落とし込みの石組ですね。
銚子の市街地にこのような小型の石材を組んだ石蔵が有りました。
貝化石が観察されます。漁港の防波堤の砂岩に注目です。
砂岩礫と安山岩礫が組み合わせられた石垣。砂岩の穴は、現生の穿孔貝の巣穴の跡です。採取した時に汀近くにあったのでしょう。
野面積の石垣は野趣豊か!
風化の造りだす模様も意外と面白いものです。次回は、川口町の散策コースです。
銚子砂岩の風景(7) 街中の砂岩の風景;飯沼観音から本銚子まで
銚子の街中には、地元産出の銚子石を様々な形で使われたものが残っています。ここでは銚子電鉄の「飯沼観音」から一つ隣の「本銚子」までの移動に街中の銚子石等を観察しながら散策する一つのコース例を御案内します。数年前に千葉県立中央博物館の「地質の日」の行事で御案内させて頂いたコースの一部です。
最初の立ち寄り先は飯沼観音に接した銚港神社です。残念ながら壊れてしまいましたが、ここの鳥居は砂岩でできていました。幸いな事にその一部が、入り口付近と奥の本殿脇に保存されています。
飯沼観音の中を通っても行けますが、銚港神社の手前から裏手の駐車場に回ると、宝篋印塔と五輪塔が整理されて保存されている一角が有ります。霞ヶ浦周辺地域には銚子石製の仏塔や宝篋印塔、墓石等が数多く分布しています。
下図は大谷石製の石蔵ですが、石材の表面に幾つか流紋岩質の小岩片が観察されます。宇都宮市の北東部の下田原町に採掘中で立ち入れない場所ですが似た様な岩石露頭があります。これからご紹介する二つの銚子石製の石蔵との比較観察用に紹介します!
銚子市内でも数少ない銚子砂岩を使った石蔵とその石材の拡大画像です。煉瓦より少し大きな切石を組み上げたもので、類似形状の切石は次回ご案内予定の外川町の石垣で観察されます。
神宮司商店の石蔵で、大きな石材を用いた立派な石蔵でしたが、2011年の震災で壁を残して崩落してしまいました。
次図は「港町銚子における河岸の利用形態と商業活動:飯沼地区を事例として,山澤他,現筑波大学1998」からこの地域の明治20年の町割り資料として抜粋引用したもので、この一角が「和田船溜」に面して居た事を示しています。中心部は公園になっています。
銚子では石蔵よりも土蔵が多いように見えますが、この様に外壁を下見板で囲んだ⑩蔵は、石蔵か土蔵か?判らないので我々にとっては困りものです。耐火構造の蔵に可燃性の「下見板」を張るのは筋が通らない様に思われますが、周辺に火災が発生した時には時には下見板を竹竿一本で簡単に取り外す事が出来るので、耐火性を落とす事にはなりません。潮風で塩害風化が激しい地域の知恵ですね。
路地の石垣の間知石に使われた海鹿島砂礫岩の例です。海岸の岩場から採掘した為に、穿孔貝の巣穴化石が観察されるものもあります。
清水坂下交差点から清水小学校に登る通学路の石垣を学校側から眺めたものです。同じような石垣はその左手の路地でも観察可能です。坂の途中に「海静寺」があります。この境内では、黒生瓦、房州石、銚子石と古銅輝石安山岩を組み合わせた灯篭等がありますが、これは別稿で取り上げる予定です。
次回は銚子半島の南側にある紀州漁民が初手から築き上げた「外川町」の砂岩の風景を御案内します。
最初の立ち寄り先は飯沼観音に接した銚港神社です。残念ながら壊れてしまいましたが、ここの鳥居は砂岩でできていました。幸いな事にその一部が、入り口付近と奥の本殿脇に保存されています。
飯沼観音の中を通っても行けますが、銚港神社の手前から裏手の駐車場に回ると、宝篋印塔と五輪塔が整理されて保存されている一角が有ります。霞ヶ浦周辺地域には銚子石製の仏塔や宝篋印塔、墓石等が数多く分布しています。
下図は大谷石製の石蔵ですが、石材の表面に幾つか流紋岩質の小岩片が観察されます。宇都宮市の北東部の下田原町に採掘中で立ち入れない場所ですが似た様な岩石露頭があります。これからご紹介する二つの銚子石製の石蔵との比較観察用に紹介します!
銚子市内でも数少ない銚子砂岩を使った石蔵とその石材の拡大画像です。煉瓦より少し大きな切石を組み上げたもので、類似形状の切石は次回ご案内予定の外川町の石垣で観察されます。
神宮司商店の石蔵で、大きな石材を用いた立派な石蔵でしたが、2011年の震災で壁を残して崩落してしまいました。
次図は「港町銚子における河岸の利用形態と商業活動:飯沼地区を事例として,山澤他,現筑波大学1998」からこの地域の明治20年の町割り資料として抜粋引用したもので、この一角が「和田船溜」に面して居た事を示しています。中心部は公園になっています。
銚子では石蔵よりも土蔵が多いように見えますが、この様に外壁を下見板で囲んだ⑩蔵は、石蔵か土蔵か?判らないので我々にとっては困りものです。耐火構造の蔵に可燃性の「下見板」を張るのは筋が通らない様に思われますが、周辺に火災が発生した時には時には下見板を竹竿一本で簡単に取り外す事が出来るので、耐火性を落とす事にはなりません。潮風で塩害風化が激しい地域の知恵ですね。
路地の石垣の間知石に使われた海鹿島砂礫岩の例です。海岸の岩場から採掘した為に、穿孔貝の巣穴化石が観察されるものもあります。
清水坂下交差点から清水小学校に登る通学路の石垣を学校側から眺めたものです。同じような石垣はその左手の路地でも観察可能です。坂の途中に「海静寺」があります。この境内では、黒生瓦、房州石、銚子石と古銅輝石安山岩を組み合わせた灯篭等がありますが、これは別稿で取り上げる予定です。
次回は銚子半島の南側にある紀州漁民が初手から築き上げた「外川町」の砂岩の風景を御案内します。
銚子砂岩の風景(6) 海鹿島の海鹿島礫岩等
海鹿島(あしかじま)には現在はウミネコや鵜くらいしか羽を休める事はなさそうですが、名前の由来は此の岩礁までアシカが来ていたからなのだそうです。ここでは接近して、チャート礫を含む砂礫岩と、偶に、殆どチャートだけの砂岩(砂礫岩)と、犬吠に似た細粒の砂岩を観察可能です。陸上部には犬吠崎よりはやや粗粒の砂岩が分布していますが、露出が悪いので残念ながら殆ど観察出来ません。
案内図に示した海はとても浅い海なので、五月等の大潮の干潮時にはかなり沖のこの案内図の範囲辺りは潮が退きます。
案内図の左手付近に車を止めると、これは望遠で撮影した画像ですが、大きな球形のノジュールを載せた砂岩の岩礁が見えます。割って中に化石が有るか見たいところですが、岩礁の周囲は深いので渡る事が出来ません。
このそばに並ぶ岩礁ですが、細粒の砂岩と後ろの鋸歯状の部分は砂泥互層の様です。
案内図の右手に突出した部分があります。この手前の入江は海水浴場でしたのが、現在は廃墟(?)の様です。海水浴場の境界には砂岩の石垣が積まれています。
白い四角の標識の上に岩峰の平らな面が見えますが、ここに小川芋銭の句が刻まれています。勿論砂岩です。岬の上には登れますが、南側半分ほどは私有地で、穏やかな外国人の方が住んでおられました。
この岬を潮が退いた海側から見たのが上図です。この部分は石切りが行われていますが、生簀の壁を築くのに石切りをしたという説と、販売用に石切りをした跡との説がありますが、量が大きいので恐らく販売されたものと考えています。
この付近の砂岩の石垣の例です。
案内図に「観察適地」と記した部分は干潮時限定ですが、ここの海鹿島礫岩は大部分が円磨されたチャートの礫を含んでいます。
時には、砂岩の中に部分的に小礫を含む部分が存在する例や、殆どチャートの砂岩(砂礫岩)等も観察されます。
引き潮時の沖合から岸を観たものです。干潮時には広い礫浜が広がりますが、潮が満ちるのも早いので注意が必要です。 次回は街中の砂岩:まだまだ続く
案内図に示した海はとても浅い海なので、五月等の大潮の干潮時にはかなり沖のこの案内図の範囲辺りは潮が退きます。
案内図の左手付近に車を止めると、これは望遠で撮影した画像ですが、大きな球形のノジュールを載せた砂岩の岩礁が見えます。割って中に化石が有るか見たいところですが、岩礁の周囲は深いので渡る事が出来ません。
このそばに並ぶ岩礁ですが、細粒の砂岩と後ろの鋸歯状の部分は砂泥互層の様です。
案内図の右手に突出した部分があります。この手前の入江は海水浴場でしたのが、現在は廃墟(?)の様です。海水浴場の境界には砂岩の石垣が積まれています。
白い四角の標識の上に岩峰の平らな面が見えますが、ここに小川芋銭の句が刻まれています。勿論砂岩です。岬の上には登れますが、南側半分ほどは私有地で、穏やかな外国人の方が住んでおられました。
この岬を潮が退いた海側から見たのが上図です。この部分は石切りが行われていますが、生簀の壁を築くのに石切りをしたという説と、販売用に石切りをした跡との説がありますが、量が大きいので恐らく販売されたものと考えています。
この付近の砂岩の石垣の例です。
案内図に「観察適地」と記した部分は干潮時限定ですが、ここの海鹿島礫岩は大部分が円磨されたチャートの礫を含んでいます。
時には、砂岩の中に部分的に小礫を含む部分が存在する例や、殆どチャートの砂岩(砂礫岩)等も観察されます。
引き潮時の沖合から岸を観たものです。干潮時には広い礫浜が広がりますが、潮が満ちるのも早いので注意が必要です。 次回は街中の砂岩:まだまだ続く
登録:
投稿 (Atom)