この場所は2012年に歩いたのだが、「石切り場」と云うには余りにも小規模に見えたので余り詳細に見ないでしまった。今回は調査当日にこの場所に関する文献が手に入ったのでゆっくりと時間を掛けて回ってみた。最初の図がその「中世東国における造仏・造塔用石材の産地とその供給圏」国井洋子,1996,に掲載された石切り場の分布図。
天神山(馬見岡凝灰岩露出地)南端に在る現代の石切り跡は駐車場として整備されている
石切り場分布図⑥と思われる石切り場跡、此処だけが露頭の観察が可能。
他の石切り跡はこの様に山稜沿いの不自然な凹地として存在し、材木や枝葉の置場と化している。稀に、周辺に石材が散乱している事が有る。
明らかに削り取った跡と思われる場所。スケールとして置いたハンマーとの比較からかなり小さなものを掘り出したと思われ、五輪塔の主要部のサイズとは全く適合しない。
前掲の文献には石切り場における採掘の痕跡については触れられていない。石切りが藪塚石切り場の様に鶴嘴を使ったのか、矢穴を開けて割ったのかによって、石材の硬さが想定されるのだが参考になる記述は探し出せなかった。以下の二つの矢穴様の凹みの列は当時のものなのか疑念が残るが、参考用に掲示した。
続く
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