さて、愛宕神社にやっと到達です。先ず正面で一応参拝を致しまして、左手の太鼓橋(石橋)で結ばれた「額堂(諸説有調査中)」付近を見た後、玉垣の礎石と柱の下の束石(つかいし)を観察します。基壇の所々に有る奉献者名に併記された年号等も拝見します。
ここの主の狛犬は銅製ですが、石燈籠や石狛犬もありますので、時間があれば回りましょう。尚、本殿は文政七年(1824)に再建されたもので透かし彫りが有名です(千葉県文化財指定)。尚、この神社には神主さんが常駐していません。常駐神社は桜木神社と言い立派ですが凝灰岩はほぼありません。
神社の建物全体が石積みの上に建てられていますが、石垣部分を「基壇」とも言います。木製の板塀は「玉垣或いは板玉垣」とか「瑞垣」と云う地方も有る様です。右側面の途中に小さな階段が在り、手前の石垣と奥の石垣では表面が異なります。洗練された美しさや、瘤出しと云う方法で力強さを表現するのでしょう。
基壇石垣の方々にこの様な奉納品のない様や願主名そして時にその時期を刻んだ額が嵌めこまれています。この基壇を築き、補修した時期が判る貴重な資料です。
拝殿前の階段を登った処に30枚程の切石が敷き詰められています。この石材には安山岩と凝灰岩が両方使われています。緑色凝灰岩も含まれています。参拝者の邪魔にならぬよう観察しましょう。
敷石の一枚をクローズアップしています。茶褐色の塊が淡い水色~緑色の隙間に数多く含まれています。これは凝灰岩で、茶褐色の部分がもっと大きいものが、礎石や玉垣の柱等に良く使われていますが、奉献者の名前が刻みにくいのが欠点です。薄茶のブロックがポックリ剥がれるのが欠点です。
基壇の上を左手に回ると小さな太鼓橋があり、額堂(諸説有調査中)に繋がっています。明治三十七年のもので、キッコーマンの初代の奉納名が刻まれています。
社殿を取り巻く透かしの板塀を玉垣と云います。石材が使われる事も多いのですが此処では木製です。その足元に目をやると玉垣に沿って淡褐色の石材が敷き詰められ、所々で四角いブロックが玉垣を支えています。この神社ではその両方に伊豆の凝灰岩が使われています。
玉垣を直接支えているのは束石(つかいし)と云い数種類の凝灰岩が使われていますが、岩相が良く判るのは二種類で最も多いのは緑色ガンで粒状の組織を持っています。西光院の参道で基壇の石材の一部に使われていたものと同一です。
数は少ないのですが、灰色と白の筋模様が観察される束石も含まれています。これは房総半島鋸山で採掘されていたものと良く似ていています。単独の石材では判別はかなり困難で、石塀に使われている時は、丹念に調べると証拠を見付ける事がd切るケースがあります。
玉垣に沿って敷き詰められている礎石は、土を被ったりしていますが、斜めの筋模様が見えたりこの様に白い模様が見える事があります。これは石灰質の生物遺骸(化石細片)で、舞楽殿の礎石と同じものです下田付近の石灰質凝灰岩です。
境内には様々な石造物がありますが、丁寧な加工を施された石造物も沢山有ります。道路側の一角に、脇に階段が付けられた燈籠があり横に白地の立て看板を立てたものが有ります。享和二年(1802)愛宕大権現と書かれている事が記されています。彫刻の一部を見て見ましょう。
同じ燈籠の火袋の部分とその下にも細工が見えます。火袋の上にも細工が見えます。
火袋の上にこの様に龍が刻まれています。石工は「古谷津喜兵衛」と刻まれています。残念ながら珍しい名字の割にはこの石工については詳らかではありません。
一応次回で終える予定です!
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