富津市のJR駅で云うと上総湊のに湊川と言う川が流れています。この左岸側、即ち南側には、鋸山の房州石を採掘した黒滝層が分布しています。文献的には大正初期に発行された「千葉県産建築石材試験報文」に石丁場に関する記事が掲載されているのですが、地域的にはこの地に多数の石丁場が存在した事は殆ど郷土史的には忘れ去られている様でした。この地の石丁場を探すにも土地勘が無いし、鋸山の様な山上に石切場が見えている場所では無いので手付かずのままでいたのですが、2012年に「売津古道保存会」と言う組織が有る事を知りましたので、見学をお願いしました。その後8年間にわたって、この地元の保存会とのお付き合いが続いています。
地質図は「富津図幅」を引用しています。水色の線で囲んだ橙色の【Kt】が黒滝層です。東京湾に面した竹岡・十宮・居作・等の地名が見えますが何れも石丁場の存在した地域です。地形図で見て頂くと更に「海良:かいら」・「売津:うるづ」・「不入斗:いりやまず」辺りまでが主要な石丁場の分布領域ですが、それより山中に入ると運搬手段がコストに響いてしまうのでカマド石に有意な「関」の石丁場から先は苦戦を強いられました。標高がせいぜい140m程度の丘のような場所です。
2012年に地元の「売津古道保存会」の皆さんに古道をご案内頂いた時の画像です。この古道の脇の崖を石垣を築いて居るのを見て意を強くし、私の本当の目的を話して石切場の調査が始りました。勿論、石丁場の存在はご存知でしたが、それが明治・大正から戦後まもなく迄の長い歴史を持って居た事はあまり詳しくはご存じなかった様でした。
石切場からの車力道の例です。硬い岩盤を削って、二輪の木製の荷車で採掘した石材を搬出しました。石切場の多くは周辺からの土砂が流れ込んで半ば以上埋まってしまった処も多い様でした。
内部は広い処も、狭い所もあり、岩質に従って少しでも良いものを採掘しながら坑道を広げていった様です。博物館の地質グループの石切場観察会の時の画像です。石切場の広さや奥行きをご覧頂くには人の存在がとても良いスケールになります。
採掘を終わった石壁に掘り込まれた石祠です。安全は今も昔も重要な関心事です。
地下の採掘場から上の開口部にある石切跡を見上げた処です。ここも土砂の流れ込みが大量でした。
壁の一部に掘り込んだ部分がありました。石壁から横に掘り進む時には、この様に石材を縦に並べたような掘方をしながら掘り込んでいきます。これを「垣根掘」と言います。
標高60m程の小さな鞍部に在る石丁場の跡です。船積みをする湊川までは直線距離にして700m余りととても良い条件です。
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