阿久津河岸から観音橋を越え更に鬼怒川を遡ると、現東武「新高穂駅」附近から流れが北に代わり鬼怒川の流路は渓谷の様相に変わる。
鬼怒川温泉を過ぎると更に渓谷は狭まり、龍王峡の「兎はね」では川幅も僅かに4mとなり、河岸には基底礫岩②らしきものが見えてくる。
この先には、川治温泉の脱衣場の前をハイキング客が歩き、休息場の窓からは解放感に感動した女性客が湯船を出て自然の姿を晒してしまう広い庭もひろがっていた(流石に現在は変わったと思うが・・)。川治温泉のさらに上流の鬼怒川本流には川治ダム、黒部ダムや川俣ダム等が続き、一方の五十里ダムでは湯西川や男鹿川の支流に続く。
五十里ダムの湖底に「海跡」と云う地名が有るのに気付いたのは10年程前の事だった(初めて行った時には海尻トンネルから海尻橋を渡って半島状の道路を走っていて現在の整備された道路は無かった)。
手掛かりが無いままに時は過ぎていたが、海跡付近から男鹿川の上流側を眺めるとダム湖は殆ど堆砂で埋まっており、夏場には緑に覆われる事もある。また下流側を観ると山側は図の如く岩峰がそそり立っが右岸側から低い岬が突き出している。
この付近を赤色地図で観ると海跡口の西側に崩壊地形が見えてくる。
江戸時代の天和三(1683)年九月一日、日光を震源とする M7.3 の日光大地震により、西側の葛老山(現標高:1,124m)が大崩落し天然ダムが築かれ河道を閉塞し、現在のダム湖よりも大きな天然の五十里湖を造り、五十里村を水没させてしまった。これにより会津西街道は水没し、氏家宿⇒矢板⇒板室⇒三斗小屋⇒松川宿等を通る会津中街道が開発された。そう云えば三斗小屋から旭岳から甲子温泉に抜ける際の避難小屋の手前だった。人々の話題から、五十里湖が山体崩壊で形成されたダムだという意識が消えたかもしれない(勿論、流路を開削する試みは行われていたが)40年後の享保八(1723)年八月の大雨で五十里湖の天然ダムは決壊(海抜け)し、濁流は下流の村々を襲い、二千数百名が犠牲になったと言われる。勿論、この阿久津河岸付近も大領に流出した土砂に覆われた事であろう。山中の風景にそぐわない「海跡」等、海や湖に関係する地名は他にも例が在る。
下図はこの大洪水で被害を受けた地区の地図の一部。さくら市ミュージアムの阿久津河岸に関する展示から抜粋引用させて頂いた。
続く
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