岩相そのものは、特に珍しいものでは無いのだが、それが現存して居る場所の事を考えると「何故、此処に?」と言う思いと、本当に此処まで運ばれて来たの?何処か他に似たような石材が在るのだろうか?と言う疑念がふつふつと沸いてくる。そんな石材がある。
創建は不明だが、文久年間(1861-1864)に火災で全ての古文書が失われたと言うから、灯籠の建立が文久年間の直後だとすればありえない事でもないとは思うのだが、一個だけこの判断に合致しない石材があるので、判らないものだ!
尚、灯籠なのだが、上部構造は作り替えられているので参考にならない。中間部にこれだけ堅い石材を使いながら、何故、基壇背k材が、その中間部の産地と関係ないものになったのかも興味深い。石材の画像だけを御案内する。画像は夫々切石1個の画像とその一部の詳細図の組み合わせ。
中には風化剥離した地肌がこんな緑色岩が混じっている
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