2011年5月30日月曜日

房州石・古墳(G-10)青掘三條塚古墳

右側から雑木の樹幹が大きく左に傾いていますが、下の方で落葉に覆われている部分がこの古墳の環壕(周溝)の部分です。右手にこの古墳へ入るの散歩道の入り口が有り「飯野ふる里散歩道4」と記された案内看板亜g立てられています。
周溝は当初二重に全長193mに亘って掘られていたそうです。この後、訪問した「内裏塚古墳」についでこの地域の古墳郡中第二位のおおきさなのだそうです。
青堀三條塚古墳の画像はこれで一応終了です。明日からは同じ青堀地区のこの附近では最も大きい内裏塚古墳をご案内します。

2011年5月29日日曜日

山本作兵衛と上野英信:世界記憶資産に想う

故山本作兵衛氏の筑豊炭鉱絵巻がユネスコの「世界記憶遺産」に登録されると言う。上の画像は1973年に福岡の「葦書房」から発行された「筑豊炭鉱絵巻」(0071-7301-0135)の中の1枚をスキャンしてみたもの。この書籍が発行された1月の小生の税込みの賃金は手取り60,634円(税込み:81,766円)。これに対してこの絵巻の価格は4,500円だった。現在なら5万円以上に相当するだろうか?出版部数も少なかったので高価だったのだろうと思うが、15年ほど前に九州に帰る機会が数度続けてあり、田川や飯塚・大牟田等の石炭資料館等を巡り、これらの原画の迫力も感じる機会が有った。北九州の零細企業の連なる街に高校卒業まで住んでいたので筑豊は縁の深い場所であった。
世界記憶遺産等と言う制度がある事を、最近のこのニュースで知ったが出来れば山本作兵衛氏の絵巻のみならず、例えば上野英信氏の「写真万葉集・筑豊」(全10巻)を含めて、上野氏の著作集やその他の多くの筑豊の記録を、出来れば何時でも閲覧出来るようにデジタルデータで保管して頂きたいものだと思う。
下の画像は、上野英信氏の「日本陥没期 地底に奪われた死者たち」(未来社:1973年)の口絵写真をスキャンしたものだ。上の画像は「三尺」と言われた薄い炭層を掘削する石炭工夫の姿だ。
下の画像は何を意味しているか?判るだろうか?1957年だと思うが長崎県の北松浦半島に存在した「中興江口炭鉱」で出水が有り29名の犠牲者が出た。その時真っ暗な構内で、カンテラの灯りを頼りに出来たか判らないが、26歳の岩橋さんが「ホゲ」と言う工具に恐らくツルハシかノミで書き残した「井料 西脇 ミヤコ ヒトシ フタリナカヨク タノム」である。人間を人間と思わぬ世界が(今も大して変わらぬが)ある事を、その中で一筋の光を求めて戦った炭鉱や北九州の零細企業・スラムの生活を何処かで記録し続けて欲しいと考えるのは無体だろうか?

房州石・古墳(G-9)青掘三條塚古墳

散歩道から近付いた正面(?)の画像です。前回は暑い時期でしたからこの附近は緑が多くて判らなかったのでしょう。古墳にせよ、岩石・地層の露頭にせよ、歩くのはやはり夏の盛りを外さないと観察は難しい事が多いですね。

天井石の側面の穿孔貝の生痕化石が多い部分を拡大して撮影しました。上にスケール(165mm)があります。この天井石も富津磯石と考えて問題無さそうです。附近の古墳に先駆けて築造されたものなので、周辺の古墳にも同様に富津磯石を石室に使用している例がもっと沢山在る可能性が高い様に思われます。これはもう少し丁寧に調べてみる必要が在るかもしれません。と言っても、こちらはズブの素人。埋蔵文化財センター等で発掘資料をこつこつ読ませて頂くくらいしか手は有りませんね。

2011年5月28日土曜日

房州石・古墳(G-7)青掘り三條塚古墳

今回は実に簡単にあっけなく見付ける事が出来ました。前回はこの手前で左側から古墳の裾を回りこの上を左から右に歩いてしまっていました。今回は落葉が一杯の入口部分から入って直ぐに此処だなと検討を付けて歩き始めて直ぐに苔生した天井石を見付ける事が出来ました。この画像でお判りですね!

2011年5月27日金曜日

房州石・古墳(G-6)青掘三條塚古墳


前回の三條塚古墳の画像(G-1)~(G-4)は、露出していると言う石室の天井石を見付けられなくて、神社境内の2つの石碑とその礎石部分の画像だけでした。その時は碑文を読まなかったのですが、今回は少し気持ちの余裕が有り、なんだか石室の天井石も必ず観る事が出来る様な気がしたので石碑を読んでみました。
一つは大正12年(1924年)に関東地方を襲った「関東大震災」に関するものでした。古墳には関係有りませんが、この地元飯野村では440戸中176戸が倒壊、半壊・大破が130余戸。死者13名。河川の堤防の損壊などが列記され小学校校舎の復旧などが3年後に完成した事を後年に伝える為の石碑でした。
残念ながらもう一つの石碑の碑文は達筆で小生には読む事が出来ませんでした。
画像は礎石の富津磯石の生痕化石に貝殻が残っていたものを拡大したものです。貝殻が残っていると言う事は、或いは古墳から持って来たのでは無く、海岸か近くの何処からか運び込んだのかもしれません。

2011年5月26日木曜日

房州石・古墳 (G-5) 青掘三條塚古墳

野毛大塚古墳を訪ねた時以来、葺石から思い出してその横を通ったのに立ち寄らずに済ませてしまった千葉県君津市青掘の「内裏塚古墳」の事が気に成り出していました。千葉県では珍しい「葺石」のある古墳だと聞いていたからです。青掘では三條塚古墳の石室の石材を観に行ったのに見付ける事が出来ずにがっかりして帰宅したのですが、葺石は小さくとも遠方から搬入するような事はせずに地元の礫を使う筈だと思ったので、地元の石材=富津磯石を思い浮かべ、となると石室の石材も富津磯石かもしれないと連想した為です。
この日は午後から日本地球惑星連合の連合大会が幕張で開催されていて、東北沖太平洋地震に関連して地震学者の方々の講演会が午後に開催される事になって居たので、午前中に君津市青掘まで足を伸ばしたのです。
前置きが長くなりましたが、どうせならと、三条塚古墳にも再挑戦する事にしました。この古墳については3月1日から4日に触れています。画像は飯野陣屋前の標識です。礎石には生痕化石のある富津磯石が使われています。古墳はこの奥にあります。
尚、古墳の名称については芝山町芝山古墳・はにわ博物館友の会発行の「房総の古墳を歩く」改訂版(ISBN4-9980639-0-1)を参考にさせて頂いています。頼りになるとても良く出来たガイドブックだと思っています。
只、この「三条塚古墳」は現地の表記を考慮して「三條塚古墳」とすべきだったかと思い、表記を全て途中で書き換えました。

2011年5月25日水曜日

房州石・古墳(O-7)野毛大塚古墳:葺石


この資料も世田谷資料館で複写させて頂いた、発掘時の葺石の残存状況を示すものです。意外と周辺部しか残っていません。下の画像は発掘後の復旧された葺き石の様子です。一箇所白いものが在るのは私のフイールドノートです。高さが16cm。葺き石は地元で採れた河原石と書かれていますので、「房州石」・富津磯石との関係を検討する必要はありませんね。
実は、この葺石を見て久し振りに君津の南にあるJR青堀近くの三条塚古墳と内裏塚古墳を見学に行きました。詳細は後日ご案内しますが、内裏塚古墳は千葉県内では珍しく「葺石」がある。古墳です。三条塚古墳は3月1日-4日にご案内している富津磯石を使用している古墳です。

下の画像は山陰の綾部市にある古墳です。高速道路のトンネルの上にある古墳ですが、私の手持ちの画像資料の中で唯一、葺石で覆った古墳(再現)なので、登場してもらいましたが、葺石はこの様に古墳全体を覆って初めて意味があるのでは無いかと思います。余りにも少ない葺石の量が不審ですが、第二~第四主体部を作り上げる過程で廃棄されたのか?興味があります。
この古墳については一応これで終りにさせて頂きます。
余談ですが、アイスランドの火山が噴火を始めて、再び世界の航空路に影響を与えて居る様です。小生のメインの関心事は火山なので、暫くは此方の継続が疎かになるかもしれません。勿論、継続の美学は出来る限り維持したいと考えています。アイスランドの火山情報は、日本火山の会のMLで発信されています。