右側から雑木の樹幹が大きく左に傾いていますが、下の方で落葉に覆われている部分がこの古墳の環壕(周溝)の部分です。右手にこの古墳へ入るの散歩道の入り口が有り「飯野ふる里散歩道4」と記された案内看板亜g立てられています。周溝は当初二重に全長193mに亘って掘られていたそうです。この後、訪問した「内裏塚古墳」についでこの地域の古墳郡中第二位のおおきさなのだそうです。
青堀三條塚古墳の画像はこれで一応終了です。明日からは同じ青堀地区のこの附近では最も大きい内裏塚古墳をご案内します。
2021年2月末から、少しやり方を変えて、所在地を地図と座標で示しながら、千葉県内は凝灰岩以外の石材も含めながら、それ以外はほぼ凝灰岩質石材の、丁場や石造物の観察記録をご紹介する事にしました。整理番号を付けており、最初の6桁はJISの地域コードです。現在1,430件の観察記録の一部を常時検索できる形で紹介する事にしました。古いものは順次削除して入れ替える予定です。宜しくお願いします!
故山本作兵衛氏の筑豊炭鉱絵巻がユネスコの「世界記憶遺産」に登録されると言う。上の画像は1973年に福岡の「葦書房」から発行された「筑豊炭鉱絵巻」(0071-7301-0135)の中の1枚をスキャンしてみたもの。この書籍が発行された1月の小生の税込みの賃金は手取り60,634円(税込み:81,766円)。これに対してこの絵巻の価格は4,500円だった。現在なら5万円以上に相当するだろうか?出版部数も少なかったので高価だったのだろうと思うが、15年ほど前に九州に帰る機会が数度続けてあり、田川や飯塚・大牟田等の石炭資料館等を巡り、これらの原画の迫力も感じる機会が有った。北九州の零細企業の連なる街に高校卒業まで住んでいたので筑豊は縁の深い場所であった。
下の画像は何を意味しているか?判るだろうか?1957年だと思うが長崎県の北松浦半島に存在した「中興江口炭鉱」で出水が有り29名の犠牲者が出た。その時真っ暗な構内で、カンテラの灯りを頼りに出来たか判らないが、26歳の岩橋さんが「ホゲ」と言う工具に恐らくツルハシかノミで書き残した「井料 西脇 ミヤコ ヒトシ フタリナカヨク タノム」である。人間を人間と思わぬ世界が(今も大して変わらぬが)ある事を、その中で一筋の光を求めて戦った炭鉱や北九州の零細企業・スラムの生活を何処かで記録し続けて欲しいと考えるのは無体だろうか?
散歩道から近付いた正面(?)の画像です。前回は暑い時期でしたからこの附近は緑が多くて判らなかったのでしょう。古墳にせよ、岩石・地層の露頭にせよ、歩くのはやはり夏の盛りを外さないと観察は難しい事が多いですね。

前回の三條塚古墳の画像(G-1)~(G-4)は、露出していると言う石室の天井石を見付けられなくて、神社境内の2つの石碑とその礎石部分の画像だけでした。その時は碑文を読まなかったのですが、今回は少し気持ちの余裕が有り、なんだか石室の天井石も必ず観る事が出来る様な気がしたので石碑を読んでみました。
野毛大塚古墳を訪ねた時以来、葺石から思い出してその横を通ったのに立ち寄らずに済ませてしまった千葉県君津市青掘の「内裏塚古墳」の事が気に成り出していました。千葉県では珍しい「葺石」のある古墳だと聞いていたからです。青掘では三條塚古墳の石室の石材を観に行ったのに見付ける事が出来ずにがっかりして帰宅したのですが、葺石は小さくとも遠方から搬入するような事はせずに地元の礫を使う筈だと思ったので、地元の石材=富津磯石を思い浮かべ、となると石室の石材も富津磯石かもしれないと連想した為です。

この古墳については一応これで終りにさせて頂きます。