2020年9月19日土曜日

軟砂岩製の五輪塔と伊豆青石の神社基壇

八千代市の米本(よなもと)に在る古刹に、銚子の砂岩かもしれない五輪塔が現存すると云う情報を聞きつけて、取りこぼしていたその古刹「長福寺」と「七百余所神社」という変わったなの神社を訪ねてみた。下調べをしてみると、山門の外に、六地蔵と無縁仏が安置されているとの事で、ゆっくり調査が出来そうだし、神社の案内には本殿は明治十六(1883)年に建設したとの記述があるので、旨く行けば礎石や基壇に伊豆の石材を使っているかもしれないと気が弾んだ。

地図は最近歩き回っている領域。古いトレースは失われているが江戸川以東~印旛沼放水路(新川・花見川)以西の内陸部は交通不便で中々歩きにくいのと、元々は「牧」で、あって大規模住宅開発地域が多いので神社等殆ど無い領域が多い。
七百余所神社は予想通り花崗岩が多用されているが、庚申塔等が残されているのでやや期待していたが基壇はしっかりと伊豆の凝灰岩が使われていた。この上の亀腹は残念ながら安山岩。画像内の茶色の石材はもともとは下の段の石材と同じ色の縞模様の中に大きな岩塊が入っていたものが、風化・参加で変色したもの。
玉垣の中に入れないので、望遠レンズを使って、凝灰岩の石材に文字を彫り込んでいそうな場所を細かくちょっくしていると「検見川村 石工 小川忠蔵」と「船橋川端 金子長十郎」の名が見えた。反対側で日付を探そう。
安山岩の亀腹の、端っこの少々陰になっている場所に「明治十六年九月九日」の刻字が見えたので、神社の案内に記載された建築時期の特定が取れたのは嬉しい。
長福寺で軟砂岩を観察させて頂く前に、山門の外の六地蔵を観察させて頂く。予想通り伊豆の緑色凝灰岩であったが、屋根が無くかなり傷んでモルタルで方々を補修している。この画像は衣の部分、淡褐色は風化色。
同じ石材が破断面ではこの様に見える。前の画像の倍以上の拡大率になっている。
伊豆の緑色凝灰岩の中には、ハッとするほど保存状態が良い石材が有り、復刻品では無いかと思いたくなるものが有る。この石材は実は無縁仏の墓標なのだが、「明治三十五(1902)年四月二十四日」の造立である。ピラミッド型に積まれた無縁仏の墓標が「復刻」である訳が無い。石灰質なのだろうか?薄い酸を指に着けてチョット触ってみたい誘惑に駆られるが、駄目だよね!
直ぐ傍に在った「米本城」の城主であった「村上綱清」の墓石と伝えられている。永禄元(1558)年に自殺されたと伝えられ、村上氏の菩提寺の長福寺に収められているのだが、一族郎党の墓が無いのが解せない。
軟砂岩は見慣れた粒度のもので、肌さわりも同じなので、銚子石で間違いないと感じたが、更に球形の「水輪」と云ったかに、三箇の小さな穴が開口しているのが見える。
二つ連なっている円形の穴は子細に観察すると「穿孔貝」の巣穴である事が判る。内壁側が薄い膜状になっているので、或いは採掘された時は、まだ穿孔貝が生きていたのかもしれない。風化していないのだ。これはこの付近で入手可能な砂岩の中で、「銚子石」が有力な候補となる。
長福寺の帰途に村上氏が城主を務めた「米本城址」を歩いてみたが、どうやら付近に家畜を飼って居られるらしく微妙な香りが強くゆっくり歩く事が出来なかったが、取敢えず明瞭に伊豆の凝灰岩と判断できる「弘化三(1846)年」造立の石祠を三体確認出来たので早々に退出。雨がポツリと来た。

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