鋸南町勝山と云っても正確な場所を御存知の方は少ないと思うが、この街は18世紀初頭から鯨漁が盛んに行われた地域で、最盛期には鯨漁に関わる船が57隻、漁師も500~600人はおられたらしい。その鯨漁の名残が、地元の「堤ヶ谷」石と本小松石・伊豆上賀茂付近の緑色凝灰岩の形で残っているのでご紹介しましょう。
やや寂れた雰囲気の街外れに在る鯨塚
鯨塚の由来を刻んだ案内です。
奉納された石祠の一部。これらは地元の「堤ヶ谷」で採掘された凝灰岩質の石材で造られています。堤ヶ谷はこの鯨塚のやや南で、今はその痕跡も残されていません。
凝灰岩の切石の例です。高さは 18 cm 程度。凝灰質が主体ですがかなり泥質ですが、次の画像の様に砂質の美しいものもあります
街中には、漁師町と云う事でこじんまりした神社の類が数多く存在します。その中で小さな社に祀られていたお稲荷さんの御使いの狐の像は、この地元石材で造られています。
房州石の玉垣をご紹介した加知山神社の境界の石垣は同様に地元産出の石材が使われています。
海岸の露頭の中には、このような雁行の裂罅に石灰質が析出したものも観察される事が在ります。付近は付加体地質観察の出来る楽しい場所です。「千葉の地質」の中に幾つか画像を紹介しています。
加知山神社の鳥居の傍に「郷社 加知山神社」と刻まれた石碑が造立されていますが、基壇の部分は美しい緑色岩の中でも、粒状の凝灰質に所々小豆色の火山岩片が混じり、彫刻にも使われる上質のものが使われています。
凝灰岩の表面を写したものです。緑色の粒状の凝灰質と小豆色の小岩片が特徴です
碑の本体と中台には箱根溶岩の中でもかなり緻密な「本小松石」が使われており、「加知山魚商組合」の名で奉納されていますが、石碑の中台の参道側には、肝いりの「日本橋魚問屋」の表題の基に「樋長・佃金・尾虎・尾兼・大平・・・」等の屋号が、江戸文字で刻まれています。明治三十六年の造立です。
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