2018年4月29日日曜日

佐野市 唐沢山城跡の伊豆軟石と岩舟石

 まだ、ツツジの花が咲いていても多分余り混雑して居ないだろうと、多寡を食って佐野市の唐沢山に出掛けた、どうやら花の盛りは過ぎ去ってしまっていた様で、代わりに、凄まじい人々が、唐沢山城跡の国史跡指定を願ってのイベントで参集していた。
城跡には唐沢山神社が明治十六年に創建されているのだが、此処に行く時は何時も、ツツジの花の事しか考えていなかったので、此処の、山城の石垣は、此処で採れるチャートをそのままに使っているらしい事は知っていたが、神社も鉄筋コンクリートなので、階段はチャートのでかい岩片が凸凹と出っ張っているのは気付いていたがそれ以外の石材の事は考えても居なかった。
 今回は、余りの人の多さに、隙間を縫って登って行くと、玉垣の柱が少し痩せていて淡い青緑色なのに気付いた。何の事は無い、見慣れた伊豆の凝灰岩が玉垣の石柱に使われていたのだ。



見慣れた模様

今日は接写もまあ、旨く行った!画像の横幅は 30 mm

 イベント用のガイドさん達が屯していたので、神社や石垣の年代を聞いても、「城跡」としてのガイド講習は受けているらしいのだが、神社の事や、改修工事の事は誰もご存じ無い様だった。板書された神社の由緒に、明治十六(1883)年に本殿と拝殿を創建と書かれている。これはかなり微妙な年代である。東武佐野線の前身の安蘇馬車鉄道も、両毛線も開通していない時期。さて、どんな手段で石材を運んだのだろう?と思っていると、神社の神門前の階段の標柱に「明治二十四年十月二十五日造」とある。図の左端。

この時期は両毛線は開通しているが、岩舟石の採石を行っていた「川島健三郎」氏の覚書だと人車鉄道も、駅に石材の積み込み施設も造られていない。馬車で運び上げたのだろうか?トラックの導入は昭和の時代の事だ。
江戸時代には、岩舟石は今の渡良瀬川の東武鉄橋から少し西の「高取」から舟運を使っていた様だから、伊豆の石材も渡良瀬川を遡って、高取から陸路を馬車で来たのか?
或いは、小型の舟に積替えて、秋山川を遡って唐沢山の西側から急な坂道を登って来たのだろうか?今の吉水辺りは、今も瓦屋さんが多く存在するから、秋山川も可能性がありそう!!調べていると、花崗岩の鳥居には明治四十二年十二月とある。階段用の切石は運び込めても、流石に鳥居の石材までは明治も終わり頃までは無理だったようだ。

本丸直下、今の神社の本殿が此の上に有る。建物は神門。玉垣がぐるりと神域を巡っているが、大変な量の伊豆石が運ばれてきたようだ!

岩舟石の中のチャート岩片はかなり大きいし、結構な量が入っている。

神橋の素材は矢張り花崗岩だが、その両側の護岸の積み石は岩舟石が使われている。これは大正十五年に地元高齢者の寄進によると書かれている。昔の高齢者は余裕があったらしい。新しい神社で、輸送方法に制約がある時代のものは、想像の羽根を飛ばせるのが楽しい。

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