「石工:青木宗義」の追っかけは未だ継続中。そろそろ終わろうとは思っているのだが、34件中21件を観察したので、あと一歩を進めたい。参考にしている文献には31件のリストが掲載されているが、その後、草加市内で一件、市外で二件を追加している。
今日は、以前にこの直ぐ近くまで来ていながら、この場所には気付かなかったのだが、石工・青木宗義が手掛けた「名号塔」が一基と、出羽三山の三山講碑が一基存在した。
石塔は、三基が並んでいて、その中央が三山講の、右側が名号塔で、左側の青面金剛は石工名は不詳。
ご覧に頂いてお判りの様に、中台と上台は夫々に同じ石材なのだが、棹石の石材が両方ともに下とは異なるので、少々違和感を覚えたのだが、よくよく見ていると両方ともに背面に明治三十六(1903)年十一月の修復が殆ど判らない程度に淡く彫られていた。
名号塔の下台右側面の講中の構成村名
文政十二己丑年(1829)の名号塔と天保十二辛丑(1841)の三山講碑が、
恐らく台石と同じ安山岩が用いられていたに違いないのに、二基とも同時に僅か70年後に、自然風化で棹石を新たにする事は考えられないので何らかの災害で棹石が破損したか紛失したとしか考えられない。明治時代の埼玉県の災害史を調べてみると、明治二十三(1890)年に大洪水の記録が在り、流失家屋720戸とある。どうやらこの洪水がこの二つを破壊したらしい。
青木宗義の署名は下台の左側に刻まれていて、これが隣接する台石との間隔が狭く、マクロレンズでも正面から画角に入らないので少し斜めに撮影して記載文字を確認。斜めに撮影したためか、石材の質でそうなったのかは判断出来ないが、どうも二つの署名の文字が異なる様に思えてならない。
さて、どう思いますか?特に「義」の「我」の偏の運びが大きく違いますね。
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